「鳥栖とともに...」と言い続けてきた
豊田陽平が韓国行きを決めた理由 (3ページ目)
豊田はそう言って唇を噛んだ。
2008年の北京五輪に出場した豊田は、1ゴールを記録。将来を嘱望されていた。しかし本田圭佑、長友佑都、内田篤人らが続々と日本代表の主力になっていく一方、その後の彼は不調に喘(あえ)いでいる。
そして2010年、J2だった鳥栖に入団した。「豊田は終わった」と口さがない人もいた。しかし、これが飛躍の契機になった。
2011年にはJ2得点王に輝き、チームをJ1昇格に導いている。2012年にはJリーグベストイレブンに選ばれ、チームはJ1で5位に躍進。2013年には鳥栖史上初の日本代表に選ばれ、クラブを史上初の天皇杯準決勝へ。2014年には代表初得点を記録し、8月に鳥栖は首位に立った。2015年にはアジアカップに出場。リーグ戦では4年連続15得点以上を記録し、苦しむチームでひとり気を吐いた。2016年も13得点ながら、守備偏重の鳥栖を支えている。
その歩みはいつもチームとともにあった。
「自分はチームに活かされ、チームを活かす選手」
それが豊田の信条だった。しかし、疑問が湧いてしまったのだ。
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