【育将・今西和男】今西-恩田-宮田、
FC岐阜の歴史がつながった瞬間 (2ページ目)
後任は古田知事の指名による県庁職員OBであった。『徳は孤ならず』に記したが、実はすでに県庁ではJリーグ側と内通していた商工労働部の職員によって、今西下ろしの密約が進んでいた。むごいのは長年岐阜のために奔走していた今西はその労に報いられるどころか、就任前の経営陣がこしらえた1億5千万円の債務保証を外されることなく、クビにされたのである。
辞表の提出を強要された71歳(当時)の今西は顧問という肩書を与えられたが、Jリーグクラブライセンス事務局からメールが送られ、関係者パスまで取り上げられた。県庁出身の新社長はライセンス不交付を恐れて、ブラック企業さながらのこれらのパワハラに唯々諾々と従い、今西のクラブ内における居場所をなくしていった。これは地方クラブに対するJリーグによる自治の侵害であり、もしも功労者からパスを取り上げないことでライセンスを不交付にしたならば、そのこと自体が大問題になるが、抗う気概さえ見せなかった。この時期、今西は選手と接触するエリアへの入場が許されず、一般席から激励の声を飛ばしていたのである。
2014年にFC岐阜の新しいスポンサーとして、Jトラストが名乗りを上げると、同社から岐阜出身の恩田が新しい社長として就任した。ここで歴史の断絶が生まれていた。知事を筆頭に県庁のFC岐阜担当者は、その内実をサポーターに知らせなかった。「今西は経営に失敗し、引責辞任をした人物」という烙印を押したまま風評を流通させていた。"あの時代"は失敗で、これからが再出発であるという刷り込みである。
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