【育将・今西和男】今西-恩田-宮田、FC岐阜の歴史がつながった瞬間 (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

ALS発症後もFC岐阜に尽力した恩田聖敬元社長ALS発症後もFC岐阜に尽力した恩田聖敬元社長
 しかし、正しい歴史の認識と検証がなければ、クラブの未来はない。そして、恩田は病に倒れながらも自らの情報収集で今西がどのような人物であったのかとリサーチしていた。恩田のSportivaのコラムに興味深い一文がある。在任中の最大の怒りとして、本来Jリーガーの使命のひとつである地域貢献活動のお礼が少なすぎる、と選手が言ってきたことに対する怒りである。「そんなことを言っている選手を俺の目の前に連れて来い。すぐその場でクビにしてやる」


 ああ、恩田はやはり岐阜のために仕事をしたかったのだ、と改めて思った。そして、この地域貢献活動こそが、今西がFC岐阜で骨を埋める覚悟でやってきたことでもある。年間約4億5千万円という乏しい予算の中でも2009年、2010年、2011年とも今西時代はJリーグでダントツのホームタウン活動数を誇ってきた。それは現在、栃木SCでプレーを続ける菅和範などにも継承されている。当時の選手たちはサッカースクールのみならず、母子生活支援施設などにも積極的に訪問を重ねていたのである。

 同時にまた、恩田の怒りを読み、3年が経過して地域貢献活動に対する選手の意識がそこまで低下してしまっていたのかという思いに繋がった。今西時代は年俸が低かったために、せめてもの寸志という意味での謝礼であった。それに比べてJトラストがスポンサーについてからのFC岐阜の人件費はJ2の4番目にまで増加しているのだ。もしも歴史の断絶がなければ、サンフレッチェ広島の森保監督のように現在でも今西の提唱したスローガン「いかなるときもサポーターへの感謝を忘れないこと・そしてボランティア活動を通じての地域・社会への貢献を行うこと」を座右の銘とする選手が多数いたことであろう。「サッカー選手である前に良き社会人であれ」というその教えこそが、サンフレッチェから数多くの優秀な指導者が生まれる源泉になっている。岐阜もそうなって然るべきであった。

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