【育将・今西和男】オフトが振り返る。「あの試合、イマニシがいてくれたら」 (3ページ目)
「そうか」と藤田は電話を切った。しばらくして練習場に向かいトレーニングを見ていると、グラウンドの事務所から呼び出しがかかった。国際電話が入っているということで受話器を握るとオフトだった。「実は自分のところに日本代表監督のオファーがあった。どうしたらいいか」。少なからず戸惑いがあるようだった。「自分はどうしたいんだ? それが大事だろう。ただ日本協会は、予算的に限界があるぞ」
マツダ時代はオフトに税抜きで年俸を1000万円払っていた。日本代表監督でも当時の協会の予算規模では、1500万か2000万だと思われた。「分かった」と言ったうえでオフトは再び訊ねてきた。「家とか車はどうなのだ?」「家はこちらの方でも準備をしてもらったらいい。家族を連れてくるだろう? 車も買わずにスポンサーから借りたらいい」
こうしてオフトの日本代表監督就任が決まった。プロ化が成されてJリーグが開幕したタイミングとも重なり、オフトの代表はいきなりダイナスティカップの優勝を飾り、やがてアメリカW杯アジア最終予選を勝ち進んでいく。「スモールフォワード」「アイコンタクト」「トライアングル」……これらの世界標準のワードは、オフトによって持ち込まれたと言えよう。1993年10月28日対イラク戦、ついにはラスト1プレーを凌げば、W杯出場という局面にまで導いた。しかし、最後のセットプレーで失点し夢は潰えた。いわゆる「ドーハの悲劇」であるが、この試合を振り返ったオフトは今西にこんな言葉を投げかけている。
「あの試合、リードして迎えたハーフタイムで選手たちは興奮しまくっていた。あと45分をこのままで逃げ切れば、初のW杯出場が決まるので無理も無いが、明らかに冷静さを欠いていた。私は何度も落ち着けと怒鳴ったが、言葉の問題があって彼らをクールにして指示を飛ばすことが出来なかった。最後の失点はそれも影響したと思う。そばに日本人でしっかりと代弁してくれる人材がいれば、よかったのだが。そう、だからあのときのロッカールームにイマニシ、お前がいてくれたら、結果は変わっていたのではないかとそう考えるよ」
(つづく)
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