なでしこW杯優勝メンバー、近賀ゆかりが最後の地・広島に残したもの「私が私じゃない...でもそれがここに来た理由なんだ」 (4ページ目)
【引退は自然と今だなと思えた】
ケガを乗り越え、最終戦ではしっかりとゴールを決めたこの記事に関連する写真を見る――これまでのキャリアのなかで最も難しい決断だったのが引退だったと思いますが、決めたきっかけは何だったのでしょうか?
近賀 この1、2年、年齢的にも引退というのは頭のどこかにありました。だけど、決め手がない。どうやって決めたらいいんだろう?って思っていました。でも昨シーズン、初めてケガ以外でメンバー外になったんです。「ついにきたか!」と思いました。
これまでのキャリアでずっと毎シーズン1点は獲っていたんです。でも昨シーズンは1点も獲れなくて、心のどこかで1点も獲れなくなったら終わりだなって思っていました。試合にも出られていなくて、出ても結果が残せない時期が続いていたところにメンバー外になりました。でも「じゃあ、ここで辞めるか」って急にはなれなくて......。
だから、オフに結構走り込んだんです。練習量も増やしたらコンディションもよくなりました。今まで年齢で練習をセーブしなきゃいけないって思っていたのは、自分自身だったんだって気づかされました。これが最後って思ったからできたのかもしれないですけど、追い込みながら今シーズンはこれで勝負して、出られても出られなくてもここで終わろうと思いました。自然とここが一番いいタイミングで「今だな」と思えたんです。
――そう決めた矢先の前十字靭帯損傷(2024年10月)だったんですね。でもそれで、引退は来年に延ばそうとはならなかったんですか?
近賀 全然ならなかったです。むしろ最後なんだから絶対戻らなきゃ!って思った結果、驚異的なスピードでリハビリを頑張れたんだと思います。
――あのホーム最終戦で、両チームの選手たちで作られた花道を通ってピッチをおりる姿や、近賀さん福元選手の背中を追いかけてきたレジーナの選手たちの想いが、すべてのチームを動かした映像を見て、女子サッカー界全体から愛されているんだと感じました。でもそのあとに言っていた「近賀ゆかりが近賀ゆかりじゃない気がしていた」っていう言葉がすごく重くて......そのギャップをどう埋めていたんですか?
近賀 何度も言いますが、私は人に恵まれているんです。本来、あんなすばらしいセレモニーをしてもらえるような選手じゃないんですよ。どっちかと言ったら、試合に出ていても目立たないところにいて、チームの真ん中にいるタイプじゃない。これまでは他にそういう"真ん中"な人がいたから。
広島にきて、その役回りをしなきゃいけなくなって、ギャップを埋めるというよりは、自分がここにきた理由なんだと受け入れました。広島の人はW杯に出ていた選手がきてくれた!ってすごく言ってくれるんです。確かにそれは事実だから、その役割を果たさないと、出るときは出ないといけないって。前に立つ責任を持って、しっかり4シーズン向き合ってこられたと思っています。でも、もしほかに前に立つ人がいたら「お願いします!」ってなっていましたよ(笑)。
***
そう話す彼女の表情は朗らかだった。苦しさを感じながらも、近賀ゆかりというフットボーラーは自然体でいられる。すべてを受け止めて、常に高い基準を自分の内に持ち、最後まで一切の妥協を許さなかった。レジーナの選手たちを見れば、近賀がたどった道筋をなぞらえることができるだろう。当分、寂しさは拭いきれないが、彼女が下した決断が今だったことに間違いないのはわかる。心からそう納得できる、すばらしい旅立ちの形だった。
(つづく)
Profile
きんが・ゆかり/1984年5月2日生まれ、神奈川県出身。
2003年に日テレ・ベレーザに入団し、FWとして新人賞を獲得。7年在籍後、INAC神戸レオネッサ、アーセナル・レディースFC(イングランド)、メルボルン・シティWFC(オーストラリア)など、国内外のチームで経験を積んだ。2021年には、新設のサンフレッチェ広島レジーナの初期メンバーとして入団し、キャプテンとしてチームを牽引。3年目にはチーム初タイトルとなるWEリーグカップを制覇した。
なでしこジャパンとしては、2004年のアテネ五輪にバックアップメンバーとして登録され、コンスタントに招集されるようになった。2007年にサイドバックにコンバートされてからは、不動の右サイドバックとして活躍。2011年ドイツW杯優勝、2012年ロンドン五輪銀メダル、2015年カナダW杯準優勝に貢献した。
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