なでしこW杯優勝メンバー、近賀ゆかりが最後の地・広島に残したもの「私が私じゃない...でもそれがここに来た理由なんだ」 (2ページ目)
【最後の地・広島で伝え続けたこと】
――WEリーグができる前は、海外にも出て、なでしこリーグ2部にも身を置きました。5年前の当時36歳の近賀さんのもとに広島からのオファーが来たときは即決でしたか?
近賀 年齢的にも「自分でいいのかな」っていうのが正直ありましたけど、オファーがくる全然ずっと前、サンフレッチェ広島に女子チームができるって聞いたとき「めちゃくちゃいいじゃん!」って思ったんですよ。まさかのそのチームからのオファーに驚きましたけど、即決でした。
――これまでにもレジーナの選手に何度も話を伺っていますが、近賀さんのことを聞くとみなさん開口一番に「近さんにはもういっぱい怒られました~」ってすごい笑顔で言うんです。このご時世、"怒る"って難しいじゃないですか。ぜひ、その極意を教えてください。
近賀 え......そんなに怒ってきたのかって今、驚いています(笑)。でも確かにそう言われたら、いろいろ伝えた自覚はあります。自分のなかで『勝つため』が基本にあって、多分私に「怒られた」って言っている人って、やれる人だと思うんです。やれるのにやってないとか、本当はもっとできるでしょって思うから伝えたんだと思います。
――確認なんですけど、そもそも近賀さんってみんなを鼓舞して最前線で引っ張っていくというタイプではないような?
近賀 ないですよ、どう見ても(笑)。20代半ばまではそんな立場になかったし、ずっとヘタクソで、まずは自分がチームについていかないといけなかった。日テレ・ベレーザ時代に上の世代の人が抜けちゃって、いきなりキャプテンをやらないといけなくなったんです。まず「キャプテンって、絶対自分じゃない」っていうのを思いながらもその役割を任されていたから、追い込まれていくうちに、勝つためには自分が下手だとか言ってられない。でも言うからにはやることやらないといけない。当然、(実力は)追いついてなかったですよ。それでもいいや、言うべきことは言おうと。そんなタイプなので広島にもキャプテンキャラで来てないから、周りからの目に温度差があってムズムズしていました(笑)。
――勝つためにはしっかりと戦わなくてはならない。そこの部分はどう伝えていったんですか?
近賀 自分はベレーザから始まって、INAC神戸レオネッサ、そしてアーセナルを始め海外チームでもプレーをして、ずっとすごくいい環境にいたんですよね。もちろんなでしこジャパンもそうで、高いレベルにいさせてもらっていた。だから、たまに緩い感じの練習とかあると、「そりゃこういう感じでやっていたら勝てないよな」っていう自分のなかのセンサーが反応するんです。そこが基準になっているから、レジーナにもそのレベルを求める。このあたりの緩さでかまわないとは思えなかったんです。もちろん葛藤もありました。
例えば、当時の中村伸監督が「今日の試合はよかった、できていた」って言うと、「え?よかった?」と思う自分がいる。モヤモヤしていましたね(笑)。でも、レジーナは育成型のチームなので、それで伸びる選手も実際にいました。そういう時期を越えて、伸さんといい関係性を築けたから、時には相反することでも自分が感じたことをそのまま伝えられるようになっていきました。
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