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稲本潤一がイングランドで痛感した世界の壁 「ドログバは一番強烈。パワーと決定力は図抜けていた」 (2ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei

【当時はキック&ラッシュが全盛】

── アーセナルの1年目は試合に出られませんでした。そこに留まる選択肢もあったのですか。

「僕はガンバからのレンタルでアーセナルに入ったんですけど。もう1年ならレンタルは可能だと言われていたんです。でも、やっぱり試合に出たい気持ちのほうが大きかったですね。

 もう1年、アーセナルでチャレンジするよりも、試合に出られる環境を探そうと。オファーを待つなかで、運よく、同じロンドンに拠点を置くフラムがオファーをくれたので、迷わずに移籍を決めました」

── フラムでも日本代表と同じように、前に行くスタイルで結果を出したわけですね。

「そうですね。だから印象深い試合なんですけど、あの時のフラムは4-4-2の中盤がダイヤモンド型で、僕はトップ下みたいな感じだったんですよ。だから、点を取る役割を担っていたんですけど、ちょっと自分のプレースタイルに迷いがある時期でもありました。

 ボローニャ戦だけじゃなくて、そのあとのリーグ戦でもある程度、点を取れていたんですが、このままトップ下で勝負していくのか、でも本来の自分のスタイルではない......。そこはすごく考えましたし、だからこそ印象深い時期でした」

── 気持ち的にはボランチがよかったのですか?

「ワールドカップのベルギー戦ではないですけど、ボールを取ってからの早い攻撃だったり、ボールを取ること自体も僕の特徴のひとつだと思っていましたから。

 もちろん、トップ下でもハードワークしないといけないんですけど、当時はちょっと攻撃寄りのポジショニングだったり、そういうプレーを求められていたので、このままこのポジションの選手としてやっていくべきかどうか......というところは、すごく悩みましたね」

── 今でこそプレミアリーグで活躍する日本人選手も増えてきましたが、稲本さんはその道を切り拓いた存在です。

「あの頃はイタリアのほうが強かった時代ですからね。当時のプレミアは、アーセナルとかマンUとか、トップ・トップは強かったし、モダンなサッカーもしていましたけど、下のチームだとキック&ラッシュが全盛の時代でしたから。

 フラムはそうでもなかったですけど、ボックス・トゥ・ボックスに走ることは求められましたし、それに対応することも重要でした。そのなかで自分がどう生きていくのかっていうところも、いろいろ考えながらやっていましたよ」

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