稲本潤一がイングランドで痛感した世界の壁 「ドログバは一番強烈。パワーと決定力は図抜けていた」
稲本潤一のナンバー1【海外クラブ編】
印象的な試合・頼れる仲間・衝撃を受けた選手
◆稲本潤一【日本代表編】>>「ジダンには何もさせてもらえなかった」
ガンバ大阪から世界に飛び出していったのは、あと2カ月で21歳を迎えようとしていた2001年夏。アーセン・ベンゲル監督の目に留まって名門アーセナルに移籍した稲本潤一は、日本人として初めてチャンピオンズリーグ出場を果たす。
2002年の日韓ワールドカップ後は出場機会を求めて、ロンドン西部のフラム、イングランド中部のウェスト・ブロムウィッチ、そしてウェールズのカーディフ・シティでプレー。2006年のドイツワールドカップ後はイギリスを離れ、トルコのガラタサライに活躍の場を求めた。
2007年にはドイツに渡ってフランクフルトと2年契約を結び、2009年からフランスのスタッド・レンヌでも新たなサッカーを経験。2010年1月に川崎フロンターレと契約して帰国した時は、30歳になっていた。
海外での生活は、実に濃密だったという。インタビュー前編の日本代表編に続き、中編では海外クラブに所属した9年半のなかから「印象に残っている試合」「頼りになったチームメイト」「対戦相手で衝撃を受けた選手」を聞いた。
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稲本潤一に9年半の海外生活を振り返ってもらった photo by Sano Mikiこの記事に関連する写真を見る── 次は海外クラブでの話を聞かせてください。2001年にアーセナルに移籍して以降、ヨーロッパでは7つのクラブで9シーズン半に渡ってプレーしました。そのなかで印象的な時期はどのあたりになりますか。
「それこそ日韓ワールドカップが終わったあとのフラムでは、かなり点を取ったんですよ。たしか最初の2カ月くらいで、5、6点は取ったんじゃないかな。
そのなかでも印象深い試合でいうと、ハットトリックした試合になりますね。今はなきUEFAインタートトカップのボローニャ戦で、ワールドカップの勢いのままにホームでハットトリックして、アウェーでも点を取りました。
前の年にアーセナルで試合に出られなくて、ワールドカップで少し活躍して、そこからのフラムだったので、イングランドで自分の価値をようやく示せた試合になったと思います」
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著者プロフィール
原山裕平 (はらやま・ゆうへい)
スポーツライター。1976年生まれ、静岡県出身。2002年から『週刊サッカーダイジェスト』編集部に所属し、セレッソ大阪、浦和レッズ、サンフレッチェ広島、日本代表などを担当。2015年よりフリーランスに転身。