25年前のワールドユース準優勝メンバーの「その後」 20歳の高田保則は周囲の評価のギャップに苦しんでいた
ワールドユース準Vから25年「あの人は今」
高田保則(45歳)インタビュー前編
あの4月24日から、今年で25年が経つ。
U-20ワールドカップではなく「ワールドユース」と呼ばれていた若年層の大会で、日本が史上初めて決勝へ進出した1999年のあの日から。今なお日本サッカーの最高成績となっている足跡が刻まれたあの日から。
当時の高田保則は「湘南の貴公子」と呼ばれていた photo by AFLOこの記事に関連する写真を見る 指揮官フィリップ・トルシエのもとに集った小野伸二、高原直泰、稲本潤一、遠藤保仁、本山雅志らの黄金世代は、今も『79年組』というグループLINEでつながっている。
誰かの誕生日を祝ったり、現役引退を労ったりする18人のひとりに、高田保則がいる。ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)でプロ3年目を迎えていた彼は、大会直前に初招集されると、そのままワールドユース行きを勝ち取った。
「ほかのみんなは下のカテゴリーから一緒に戦ってきて、アジア予選を勝ち抜いて、ワールドユースに出場している。僕は最後の最後にチームに入った選手だったので、みんなに認めてもらわないといけないし、トルシエはちょっとでも気を抜いたら怒るしで、一日一日がとにかく必死でした」
アフリカのナイジェリアを舞台とした大会で、高田は3試合に途中出場した。学年ではひとつ年下になる小野や稲本らが頼もしく、たくましく、そして優しかった。
「彼らみんな、サッカー小僧じゃないですか。ホントにサッカーが好きで、ホントにウェルカムの雰囲気で迎えてもらったことが、すごく印象に残っています。20歳以下でしたけど、大人なチームだったなあ......と。何事にも、強烈なトルシエに対しても(笑)」
ナイジェリアから帰国した高田は、彼らを待ち構える報道陣の数に驚く。SNSのない時代である。遠いアフリカで戦っている彼らに、日本国内の熱狂は届いていなかった。
「日本がどれだけ盛り上がっているのかなんて、あっちにはまったく伝わっていなかったですからね。それで、自分たちがすごいことをしたんだと、あらためて気づきました」
帰国直後に会見に臨んだ高田は、「あっちは観客の目が肥えていて、相手の逆を取ったりすると、スタンドがすごく沸くんです。それが面白かったですね」と笑みをこぼした。しかし、瑞々しい気持ちは、少しずつ重たくなっていく。
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著者プロフィール
戸塚 啓 (とつか・けい)
スポーツライター。 1968年生まれ、神奈川県出身。法政大学法学部卒。サッカー専
門誌記者を経てフリーに。サッカーワールドカップは1998年より 7大会連続取材。サッカーJ2大宮アルディージャオフィシャルライター、ラグビーリーグ ワン東芝ブレイブルーパス東京契約ライター。近著に『JFAの挑戦-コロナと戦う日本 サッカー』(小学館)