「このままだとW杯のメンバーに入るのは難しい」明神智和はボコボコにやられたフランス戦後「出ないほうがよかった」と落ち込んだ (2ページ目)

  • 佐藤 俊●取材・文 text by Sato Shun
  • photo by L'EQUIPE/AFLO

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「(ポジションを言い渡された時は)最初、『えっ!?』って思いました。それに、トルシエからは『いつもどおりプレーしてくれ』と言われただけで、要求とか一切なかったんです。ふつうのウィングバックのように、何度もサイドを突破してクロスを上げる、みたいなプレーは求められなかった。

 もしそういったことを要求されていたら、無理だったと思うんですけど、僕の守備の特徴を右ウィングバックで出せばいい、といった感じだった。ですから、ふだん(所属する)チームでやっていないポジションでプレーする難しさはありましたけど、『嫌だなぁ』という感覚はなかったです」

 明神が担う右サイドとは逆、左ウィングバックには中村や小野伸二ら攻撃的な選手が入っていた。そのため、攻撃時には左サイドの選手が前目のポジションをとり、右サイドの明神は下がって対応する可変的なシステムだった。

「自分としては、ある程度やれました。ゴンさん(中山)とか、ベテランの選手がいろいろ助けてくれて、チームの雰囲気もすごくよくて、また『ここでプレーしたい』という気持ちがより強くなりました」

 初めての日本代表。明神は上々のスタートをきった。

 そのあと、明神は五輪代表に合流してシドニー五輪に挑んだ。

 同五輪代表は1997年のワールドユース組と、「黄金世代」と呼ばれる1999年のナイジェリア大会で準優勝したワールドユース組との混合チーム。結成当初、マレーシア組の柳沢は「ナイジェリア組の選手たちは、オレらはトルシエ戦術を理解し、世界で準優勝したという自信がすごかった」と語り、それぞれがバチバチにやり合うかと思われた。しかし、世代融合は意外と早かった。明神が言う。

「僕らの代はおとなしい選手が多く、下の"黄金世代"はナイジェリアで準優勝して、Jリーグでも試合に出ている選手がたくさんいて、自信にあふれていました。それで、プレーも尖っていましたけど、(小野)伸二をはじめ、人間性は明るくて、楽しかった。トルシエの戦術とか教えてくれたりして、いろいろと気を遣ってくれたので、かなりスムーズに融合することができました」

 柳沢、高原直泰、中村、稲本潤一、松田直樹、中澤佑二など、もともとタレントぞろいの五輪代表だったが、最終予選からは中田英寿が合流。さらに、本番では楢崎正剛らオーバーエイジが加わって、メダル獲得への期待が大きく膨らんだ。

 実際、ブラジルにこそ0-1で敗れたものの、グループリーグを難なく突破した。しかしながら、決勝トーナメント1回戦でアメリカ相手に苦戦。PK戦の末、惜しくも敗れた。

 そのシドニー五輪で、明神は全4戦で先発フル出場。トルシエの信頼を得て、そのままアジアカップのレバノン大会に臨む日本代表にも招集された。

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