三浦知良、衝撃の日本代表落選。98年、初出場のW杯イヤーに何が起きていたのか (3ページ目)
【日本は欧州の情報から隔絶されていた】
第1次岡田ジャパンは、フランスW杯直前になって、攻撃的サッカーを代表するプレッシング戦術を断念。守備的サッカーでフランスW杯に臨むことになった。180度異なるスタイルながら、そこに明確な説明はなかった。気がつけば、日本代表のサッカーからプレッシングという気高さが消え、守備的サッカーが正当化されていたという感じだった。
当時、日本と欧州を頻繁に往復していた筆者には、欧州の情報が日本の指導者に届いていない現実が目に留まった。日本代表監督、コーチも例外ではなかった。岡田監督の守備の概念がまさにそれだった。
フランスW杯初戦(アルゼンチン戦)を直前に控えた日本代表は、スイスのローザンヌでユーゴスラビアと、最後の調整を兼ねたテストマッチを行なった。
結果は0-1。後半27分、小村徳男がゴール正面やや左でファウルを犯し、ユーゴにFKが与えられた。そこに登場したのは当時、ロベルト・カルロス(ブラジル代表)、フリスト・ストイチコフ(ブルガリア代表)とともに欧州で3本の指に入った強シューター、シニシャ・ミハイロビッチだった。
その140キロを超える強シュートを現地で幾度も目の当たりにしていた筆者には、彼がボールをセットした瞬間、その直接FKは50%の確率で決まると直感した。日本の壁とGK川口能活の守備位置を確認すると、それは70?80%に膨らんだ。記者席で周囲にそう言い散らしながら観戦した記憶がある。
その左足キックは当然のように決まった。試合後、川口に「蹴る前から入ると思ったよ」と告げると、川口は立腹した様子で、「それなら、杉山さんがキーパーやってみてくださいよ」と、怒られてしまった。だが、川口に失礼を承知でそう言いたくなるぐらい、日本の守備陣は、世界屈指の強シューターを甘く見ていた。と言うより、彼が世界屈指の強シューターであるという認識に欠けている様子だった。
岡田監督はベスト16入りを目標に掲げていた。ある雑誌のアンケートで日本の成績を問われた筆者は1分2敗と答えたが、グループリーグ敗退を予想したのは筆者のみで、2勝1敗や2勝1分けが大勢を占めた。3連敗という実際の成績を的中させた人は、誰ひとりいなかった。当時はそんな時代だったのである。
(つづく)
フォトギャラリーを見る
3 / 3