三浦知良、衝撃の日本代表落選。98年、初出場のW杯イヤーに何が起きていたのか

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • 山添敏央●写真 photo by Yamazoe Toshio

何かが起こるW杯イヤー(1)~1998年

 1998年フランスW杯アジア最終予選。日本サッカー協会はその半ばで、加茂周監督を解任した。後任監督には岡田武史コーチを内部昇格する形で抜擢したが、その後も苦しい戦いが続いた。2002年に韓国とW杯を共催する日本は「W杯本大会に出場していない国が、W杯を開催した過去はない」というサッカー史にも苦しめられることになった。

 それだけに、1997年11月、ジョホールバルで行なわれたアジア第3代表決定戦でイランを下し、W杯初出場を決めると、国民は喜びを爆発させた。体面を保ったことにホッと胸をなで下ろすオールドファンも少なくなかった。

 だが、それからの7カ月間、日本代表はあまり進歩しなかった。

 1998年、W杯イヤーに突入すると、まず2月にオーストラリア遠征を行なった。オーストラリア代表に3-0。クラブチームのシドニー・ユナイテッドに1-0。翌3月には、横浜国際総合競技場(日産スタジアム)の開場記念イベントとして行なわれたダイナスティカップ(東アジアE-1選手権の前身にあたる大会)に臨み、韓国に2-1、香港に5-1と勝利を収めた。順調にステップを踏んでいるかに見えた。

1998年3月、中国戦に先発した日本代表・三浦知良1998年3月、中国戦に先発した日本代表・三浦知良この記事に関連する写真を見る 事件はその3戦目、対中国戦で起きた。殴り負けと言うか、力負けと言うか、0-2で完敗したのだ。中国が格下に見えないところに、見る側の不安は膨らんだ。2トップの一角として先発したカズこと三浦知良が、後半12分という早い時間にベンチに下がる姿にも、よからぬ気配が感じられた。コンディションに問題を抱えていたカズは、身体の動きが重く、中国選手の派手なアクションに対応できていなかった。

「日本代表選手としてのカズの姿を見るのは、この試合が最後になるかもしれない」とは、当時のノートを振り返った時、目に留まった筆者の殴り書きだが、岡田ジャパンにおいてそれは現実のものとなった(2000年、トルシエジャパンに招集されている)。カズは結局、W杯本大会に臨む最終メンバーから外れた。巷ではそのことについて賛否両論が渦巻いたが、岡田監督が下した落選の判断を、筆者は、当時もいまも妥当だったと思っている。問題は、落選を伝えるタイミングだった。

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