ゴン中山、野人・岡野だけじゃない。輝きを放った「スーパーサブ」10人

  • 中山淳●取材・文 text by Nakayama Atsushi
  • photo by Nikkan sports/AFLO

 一般的に、サッカーの試合でスタメンに名を連ねる11人は、そのチームが勝利するために選ばれたベストメンバーとされる。しかし1試合を通して見た場合、選手交代カードが与えられる指揮官にとっては、スタメン以外のサブメンバーをいかに有効に使えるかが、チームを勝利に導くためのキーポイントとなる。

スーパーサブとして歴史に残るゴールを決めた岡野雅行スーパーサブとして歴史に残るゴールを決めた岡野雅行 なかでも試合の後半、「ここぞ」というシチュエーションとタイミングでピッチに送り出される控え選手は、いわば監督にとっての切り札的存在。だからこそ、彼らはサブのなかでも特別な戦力として、周囲から"スーパーサブ"と呼ばれる。

 日本サッカー界において、スーパーサブという用語を世間に浸透させたのは、ハンス・オフト監督が率いた日本代表でその役割を果たしていた中山雅史だった。

 きっかけは、1992年に北京で行なわれたダイナスティカップ決勝戦でのこと。

 韓国に1点のリードを許すなかで迎えた後半78分、あとがないオフト監督は福田正博に代えて前線に中山を起用。するとその5分後、その中山が値千金の同点ゴールを決めたのだった。結局、試合は延長戦で両チームが1ゴールずつを決め、PK戦により日本がダイナスティカップ初優勝を飾ることに成功している。

 以降、中山のジョーカー起用が定番化すると、日本が初優勝を飾った1992年アジアカップ広島大会でも、グループステージの北朝鮮戦の同点ゴールと準決勝の中国戦の決勝ゴールを途中出場でゲットして、その地位を確立。高木琢也、三浦カズ、福田ら前線に豊富なタレントを擁していたオフトジャパンにおいて、中山は勝負をかけるタイミングで起用されるスーパーサブとして、世間から注目を浴びるようになった。

 続いて日本代表のスーパーサブを継承したのが、岡野雅行だ。

 加茂周監督時代に代表デビューを果たした岡野は、俊足を最大の武器としていたことで試合終盤に起用されるパターンが定着。ところが、途中出場7試合目となった1996年8月のウルグアイ戦で初ゴールを決めてからはしばらくゴールから遠ざかり、次第に出場機会も減少する。

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