ゴン中山、野人・岡野だけじゃない。輝きを放った「スーパーサブ」10人 (3ページ目)

  • 中山淳●取材・文 text by Nakayama Atsushi
  • photo by Nikkan sports/AFLO

 そのジーコ監督時代のスーパーサブといえば、大黒将志をおいてほかにいないだろう。

 とりわけ2006年ドイツW杯アジア最終予選の北朝鮮戦で決めた代表初ゴールは、見る者に強烈なインパクトを与えた。1−1で迎えた後半の79分に登場した大黒は、アディショナルタイムに値千金の決勝ゴールをゲット。翌日のスポーツ紙の一面には「神様、仏様、大黒様」の見出しが飾られるなど、一躍救世主として脚光を浴びたのである。

 その後、「大黒=スーパーサブ」が定着し、その年に途中出場で計4ゴールをマーク。翌年以降、代表での得点はストップしたが、2006年ドイツW杯でもスーパーサブとしてグループリーグ全3試合に出場を果たすなど、代表史においては中山に匹敵するほどの印象を残したスーパーサブだった。

 一方、Jリーグに目を向けても、スーパーサブとして輝いた日本人選手がいる。

 まずJリーグ初期の時代で印象深い選手を挙げるなら、名古屋グランパスエイトの森山泰行だろう。

 アーセン・ベンゲル監督が率いた時代を筆頭に、途中出場で数々のゴールを量産した森山が途中出場で決めた通算23得点はJ1歴代2位。帝京高校の後輩にあたる松波正信も、途中出場で通算14得点を記録するなど、のちにガンバ大阪を代表するスーパーサブとして活躍したが、数字も含め、森山が残したインパクトには敵わない。

 ほぼ同時時代に鹿島の黄金期を支えた眞中靖夫は、まさにスーパーサブが天職といえたアタッカーだった。

 宴会部長としてチームの盛り上げ役も買っていた眞中は、ピッチでも途中出場でチームにエネルギーを注入し、とくにトレードマークとなっていたキャノンシュートで重要なゴールを量産。途中出場でキャリア通算15得点を記録した。

 1990年代後半から2000年代にかけて活躍したのが、Jリーグ史における"キング・オブ・スーパーサブ"として知られる播戸竜二だ。

 1999年ワールドユースで準優勝に輝いた黄金世代のひとりである播戸は、ガンバ大阪、コンサドーレ札幌、ヴィッセル神戸、セレッソ大阪、サガン鳥栖、大宮アルディージャ、FC琉球と、21年にわたってプレー。ゴール前で何度も動き直し、ボックス内で決定的な仕事をするストライカーとして、途中出場でJ1通算27得点をマーク。この記録は、いまだに破られていない。

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