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師はラモス瑠偉。W杯3回出場の
茂怜羅オズはなぜ日本を選んだのか (2ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei
  • photo by JFA/AFLO

「サッカーを続けていれば、もしかしたらプロになれたかもしれないです。でも、スパイクを履いてプレーすることになかなか慣れなかった。ビーチサッカーのほうが、うまくいくという確信があったんです」

 もちろん、ビーチサッカーが盛んなブラジルであっても、サッカーと比べればお金を稼ぐことは難しい。それでも、生粋のリオっ子である茂怜羅は迷うことなく、16歳の時にビーチサッカーのプロ選手となることを決断したのだ。

 プロ入り後、すぐさま頭角を現した茂怜羅は国内で名声を高め、2006年の20歳の時にドイツのクラブへと移籍する。さらにその1年後、日本からのオファーが届く。沖縄で活動するレキオスBSというクラブからの誘いだった。

「日本のことは、まったく知りませんでした。ジーコが行った国......というくらいで。でも、東京だったらびっくりしたかもしれないけど、最初に行ったところが沖縄だったから、よかったかもしれない。暖かいし、ビーチもある。地元の人もフレンドリーで、違う国に来た感覚はまるでなかったですね」

 もちろん、言葉や食事、文化の違いに戸惑った部分もあったが、日本という国に茂怜羅はすぐさま適応した。そして、しばらくすると、ひとつの感情が湧いたという。それは「日本人になりたい」という想いだった。

「日本は便利で安全だし、日本人の優しさや親切さにも心を打たれました。そして、これからも日本のビーチサッカーを引っ張っていきたいという想いが、日増しに強くなっていったんです」

 茂怜羅が日本に来て驚いたのは、言葉でも食事でも文化の違いでもなく、ビーチサッカーのレベルの低さだった。しかし、茂怜羅はその環境を嘆くのではなく、「どうやって日本のレベルを上げていくか。そういうところが面白かった」と前向きに捉えていた。

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