「ニシノー、全力で走ってみろ!」。秘話で明かす代表新監督の人物像 (2ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki 藤田真郷●写真 photo by Fujita Masato

 視野が広く、とりわけミドルパスに優れていた。従来の日本人選手にはない洒落たセンスを備えたパッサー。日本サッカーの将来を背負って立つ逸材。それが当時の評価だった。守備も厳しく言われるいまの時代なら、まず出現していないタイプである。

 日本リーグでは日立製作所でプレーした。しかし、ほどなくすると日本代表には選ばれなくなっていった。プレーは相変わらずだったが、実業団リーグ(JSL)というある種、きまじめな社会でプレーしているうちに、カリスマ性は失われ、舞台の中心から外れた選手になっていた。

 とはいえ、30歳を超えてもリーグ戦のベスト11に選ばれるなど、息は長かった。引退したのは1990年。選手寿命が短かった当時、30代半ばまで現役を続けた選手は少ない。高い技術の持ち主だった証拠だ。

 引退後はユース代表の監督を経て、96年アトランタ五輪を目指すチームの監督に就任したが、その中間に当たるオフトジャパン時代は、チーム帯同スタッフとして活動していた。

 その後、五輪代表チームで監督とコーチの関係になる山本昌邦氏とともに、記者席の後ろあたりでよくスカウティングビデオの撮影をしていたので、報道陣とはお互いの労をねぎらったり、雑談をかわしたりする、近しい距離にあった。

 それだけに五輪代表チーム監督就任は、少々驚かされた。記者席の後ろでビデオを撮っていた身近な人が、急に偉い人になったという感じで、こちらには2階級特進のイメージを抱かせた。

 当時、監督の西野さんに、「エッ?」と一瞬、懐疑的になったのは、現役時代の西野さんに似た長身のゲームメーカータイプの廣長優志(当時はヴェルディ川崎)に、とりわけ厳しく当たっていたことだ。

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