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【プロ野球】「肩は消耗品だ」 半世紀前に投手酷使へ警鐘を鳴らした近藤貞雄 明治大進学の鈴木孝政を獲得した伝説の説得術 (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

【教わったのはクイックと牽制だけ】

 契約の日取りを調整するなど、近藤はスカウトの仕事まで自らこなし、一気に入団まで話を進めた。鈴木はドラフト前、マスコミに対して「在京球団からの指名ならプロ入り、それ以外なら明治大進学」という条件を示していたが、まさに近藤に引っ張られる形でドラゴンズ入りを決めた。いざドラゴンズの一員となった鈴木は、キャンプで近藤からどのような指導を受けたのか。

「技術的なことは、あまり細かく言われなかったですね。フォームもまったくいじられなかった。どんな形でも、キャッチャーミットに収まるボールがよければいいんだ、という考えの人でした。だから教わったのは、クイックと牽制だけです」

 ドラフト順位に関係なく、高校出の新人投手はフォームをいじらない──。そんな方針が近藤のもとで徹底されていたようだ。しかし、鈴木が驚いたのはそのことだけではない。入団後、チーム内で徹底されていた別の"統一事項"にも衝撃を受けたという。

「ブルペンで近藤さんに『何球だ?』って聞かれて、キャッチャーが『110球です』って答えた。そしたら『やめろ!』って言われて。『え?』って、びっくりしました。僕は高校の時から調子が出てくるのは100球ぐらいからで、一番いい感じの時でしたから。『そんなぁ......』って」

 近藤はかねてから、練習での過度の投げ込み、試合での投球過多を否定。1972年の秋季練習では主力投手に1球も投げさせなかったうえに、「来年のキャンプインまで絶対に投げるな」と指示していた。疲労を取り除くための措置で、大半の投手に歓迎されたなか、投げないと「ほかのチームのピッチャーよりゲーム勘が鈍る」と不安がるベテランもいた。

【アメリカで学んだ投手を壊さない指導法】

「その時も同じです。ベテランの人も球数を制限されて。たしか、頼んでいた人もいたんじゃないかな。『これじゃあ練習にならない』って。僕も物足りなかったです、ブルペンは。そしたら、『近藤さんの考えは、肩は消耗品だ』って、周りの人から伝わってきて。そんな言葉聞いたこともないし、『なんですか?』って聞いたら、『近藤さんはアメリカで勉強してきたんだ』と」

 1966年秋、前回の中日コーチ時代。近藤は与那嶺とともに渡米し、若手が参加する米フロリダ教育リーグを視察した。その際、ツインズ投手コーチのジョニー・セインから「投手の肩は消耗品」と教えられ納得。日本流の投げ込みや酷使が確実に投手寿命を縮めると確信し、指導に生かしていた。

 その指導に戸惑いを感じつつも、キャンプから順調に過ごした鈴木は、18歳にして4月にリリーフで一軍デビュー。ただ登板は1試合だけで、以降は二軍戦に先発で投げていたなか、6月後半に右肩痛を発症。ノースローでランニングの毎日が延々と続いた。それでも、翌1974年1月に完治すると、5月から一軍戦力となった。

「近藤さんで忘れられないのは、その年の巨人戦で長嶋(茂雄)さんにホームランを打たれたあとのこと。ベンチ裏でこんこんと言われてね。『なんでカーブ投げたんだ』って。それで終わりだと思ったら、宿舎に戻って、耳を引っ張られて部屋まで連れて行かれて......。なんで耳を引っ張ったのか。びっくりしましたよ。今そんなことやったら大変ですけど、あの感触は覚えています。

 それで近藤さんの部屋に行ったら、『速い真っすぐがあるのに。真っすぐを投げて打たれたなら仕方ない』っていう話で。長嶋さんというか、大ベテランにカーブを打たれたのが許せないんですね。逆鱗に触れてしまいました。僕はずーっと正座で聞きながら、腹ん中では、『キャッチャーが......』と思ってたんですけどね」

(文中敬称略)

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著者プロフィール

  • 高橋安幸

    高橋安幸 (たかはし・やすゆき)

    1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など

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