野村克也のひと言から始まった高津臣吾のクローザー人生「おまえ、シオザキの球、投げれんか?」 (4ページ目)
同年の髙津は、チーム最多の56登板で78回1/3を投げている。まだ1イニング限定ではなく、時には6回からリリーフすることもあり、野村から「任せたぞ」といった言葉もなかったという。終わってみれば救援で6勝、20セーブをマークしてチームが連覇しても、意識は変わらなかったのか。
「ブルペンに電話がかかってきて、『誰だろう?』と思っていたら『行くぞ』ってなって、『はい、じゃあ行ってきます』みたいな(笑)。ずっとそんな感じでした。『おまえが抑えだ』とか言われてないのに、その気になってしまうのもよくないかな、と思いましたし」
それでも、2年連続で西武と対戦した日本シリーズ。髙津は第2戦、4戦、7戦と3セーブを挙げて日本一に大きく貢献する。とくに第4戦は1対0の9回に登板し、ゼロに抑えた。『ヤクルトに守護神・髙津あり』の印象が周りに強く植え付けられ、翌94年は8勝19セーブで自身初の最優秀救援投手賞を受賞。ここまできて、抑えとしての自覚を持つに至ったのではなかろうか。
「うーん、どうかなあ。多少、持っていたかもしれないですけど、あんまり......。抑えって、特別なポジションだと思っているので、そこを僕がやっているという認識があんまりなかったかなと思います。ライバルもたくさんいたし、僕より球の速いピッチャーはいっぱいいたので、そんなのんびりしているような感じではなかったかなと。常に、競争していたような気がしますよ」
(文中敬称略)
高津臣吾(たかつ・しんご)/1968年11月25日生まれ。広島県出身。広島工業高から亜細亜大学に進み、90年ドラフト3位でヤクルトに入団。魔球シンカーを武器に守護神として活躍し、4度の最優秀救援投手に輝く。2003年には、通算260セーブ、289セーブポイントの日本記録(当時)を達成。04年、MLBシカゴ・ホワイトソックスへ移籍し、クローザーとして活躍した。その後、韓国、台湾に渡り、4カ国でプレーした初の選手となる。11年、独立リーグ・新潟アルビレックスBCと契約。12年には選手兼任監督としてチームを日本一に導いた。同年、現役を引退。14年に古巣であるヤクルトの一軍投手コーチに就任。16年から二軍監督、20年から25年まで一軍監督を務めた
著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など
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