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野村克也のひと言から始まった高津臣吾のクローザー人生「おまえ、シオザキの球、投げれんか?」 (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 野村は髙津に「150キロの腕の振りで100キロのシンカーが投げれんか?」とも言った。「シオザキの球」とは、速球と同じ腕の振りで投げる遅い球という意味だった。高津は大学時代からシンカーを投げていたが、真っすぐとの球速差は少ない。新たなシンカーを一からつくり上げることになった。

「ブルペンで投げている横で『もっと遅く』『もっと腕の振りを速く』とか、『もっとこんなイメージで』っていう野村監督の言葉をずっと隣で聞きながら......。一番投げた時で、300球近く投げたと思います。監督が隣にいるのでやめられなくて(笑)」

 監督の要求に加え、打者と同じ目線で受けるブルペン捕手の助言も参考になった。実際に新球シンカーを投げ始めたのは翌93年2月のキャンプ。ブルペンでは正捕手の古田敦也から、スピードの抜け方を伝えられた。

【任されて気づけば抑えの位置へ】

 実戦では左右の打者それぞれのタイプ別に抑え方、カウントの取り方を古田に伝授され、新球の生かし方につなげた。肝要なのは低めに投げることだったのか。

「一番はバッターのタイミングを外す、というところじゃないですかね。たしかに、高めにいくと、なかなかタイミングが外れづらいので、結果的に低めに投げることになります。でも、まずはバッターを前(投手方向)に引っ張り出して、打たせるっていう感じですね」

 相手打者を泳がせるようにタイミングを外し、打ち取るシンカー。のちに代名詞になる武器を習得した高津は、93年5月2日の巨人戦でプロ初セーブを挙げる。先発した荒木大輔に代わって、6回途中から登板。そのまま9回まで投げると、二死一塁からルーキーの松井秀喜に2ランを献上したが後続は断ち、チームは4対3で勝利した。

「おそらく、野村監督も最後までとは思ってなかったと思う。たまたま調子よく、1回、2回と抑えられたので最後までいって、初セーブを挙げた。そこからですね、8回、9回を任されるようになったのは。ただその年は、『僕が抑えだ』とか、これっぽっちも思ったことがないんです。ポジションが後ろになってきたなあ、とは思いましたけど」

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