吉田義男が生前語っていた母校への思い 「生きているうちにもう一度......そこで勝って校歌を歌えたら」 (3ページ目)
かつて吉田はこう語っていた。
「山城は私たちのあと、3回甲子園に出ましたが、すべて初戦敗退なんです。生きているうちにもう一度......。そこで勝って校歌を歌えたら、言うことありませんわ」
そんな吉田の願いが叶うことはなかった。選考会の頃、吉田はすでに病床に伏しており、それから10日後の2月3日の早朝、静かに息を引きとった。
3度目の取材の日、吉田は青春時代を振り返りながら、こんな夢を口にしていた。
「高校時代、ピッチャーをやりたいという思いがずっとありました。子ども頃から憧れていましたが、いつも『小さいから無理だ。内野をやれ』と言われて、結局ショートを守ることになりました。でも夢としては、ピッチャーをやりたかったんです」
高校2年の夏に甲子園に出場し、「山城の吉田」として好守の遊撃手として評価されたが、その頃もマウンドへの憧れがあったという。また、楽しそうにこんな話もしてくれた。
「一度だけ練習試合か大会で、リリーフ登板したことがありました。でも、いざマウンドに立つとフォアボールばかりで、全然ダメでした。そこから二度とお呼びがかからず、即失格でしたわ(笑)」
その後、1975年に阪神の監督に就任した際、背番号1を選んだのは、MLBの名将、ビリー・マーチンを意識したものだった。しかしあの日の笑顔を思い出すと、そこには青春時代の憧れも込められていたのかもしれない。
あまり語られることのなかった高校時代の吉田義男。貴重な話を聞かせていただいた。
合掌。
著者プロフィール
谷上史朗 (たにがみ・しろう)
1969年生まれ、大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。イベント会社勤務を経て30歳でライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)などに寄稿。著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『一徹 智辯和歌山 高嶋仁甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。
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