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吉田義男が生前語っていた母校への思い 「生きているうちにもう一度......そこで勝って校歌を歌えたら」 (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro

 その思いが実ったのが1950年(昭和25年)、吉田が2年生の夏だ。山城高校は初の甲子園出場を果たした。甲子園では初日に敗退し、早々に甲子園をあとにしたが、かけがえのない思い出となった。

「入場式のあと、2試合目で北海に負けました。でも、スタンドから見ていた二商時代とは違い、今度はグラウンドに立ってプレーできました。すべてが思い出です。戦後間もない時期で、銀傘もない8月の甲子園のスタンドは真っ白でした。

 フライが上がると遠近感がつかめず、ファウルフライのテリトリーも広くて難しかった。いろいろ戸惑いながら、あっという間に試合が終わりました。私にとっての高校時代の思い出は、戦後の雑踏のなかを歩いた二商時代と、真夏の真っ白なスタンドに囲まれてプレーした山城時代。記憶はこの2つですね」

 3年夏は京都大会決勝で平安に敗れ、高校野球生活は終わった。

【大学を中退し阪神に入団】

 高校卒業後は立命館大へ進学するも、1年余りで中退し、阪神タイガースと契約することになった。

「まさか、自分がプロになるとは思ってもみませんでした。私のあと、大学を中退してプロへ行く選手が続いたので、私が前例だったのかどうかわかりませんが、高校卒業からわずか1年ちょっとで、後先生のもとで目指した甲子園を本拠地にするタイガースで野球をすることになるなんて。本当に人生はわからないものですね」

 それからも甲子園と深く関わりがつづく野球人生となった。

 昨年秋、高校野球の各地の戦いを見ていた時、ふと吉田のことを思い出した。山城高校が秋の京都大会でベスト4に進み、近畿の21世紀枠の候補に選出されたのだ。64年ぶりの甲子園出場の期待が高まったが、1月24日の選考会で21世紀枠に選ばれたのは壱岐(長崎)と横浜清陵(神奈川)で、山城は補欠校にとどまり、甲子園への道は閉ざされた。

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