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祝・殿堂入り 愛弟子が語る「天覧試合」「王貞治の世界記録」をジャッジしたレジェンド審判員・冨澤宏哉の功績 (4ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

── ほかにはいかがですか?

井野 「試合のたびにテーマを持って臨みなさい」とのアドバイスを受けました。これは野球の試合だけでなく、何事においても大切なことだと私は肝に銘じました。ルールや審判技術の習得に関しては厳しかったです。富澤さんは89年まで現役ですが、当時の「6人制審判」で、同じクルーになったのは、そんなに多くなかったですね。ただ、引退してからもテレビのプロ野球中継を見ていて、私の帰宅後、真夜中になっても「きょうのジャッジはよかったぞ」なんて、よく電話をかけてきて叱咤激励してくれました。後輩思いの方でした。

── ふだんの富澤氏はどんな方だったのですか? 穏やかな風貌ですが......。

井野 私より2回り年上ですから、やはり威厳があって怖かったですよ。周囲にキザだと思われるのが嫌で公言しませんでしたが、サパークラブなどでシャンソンの『枯葉』を聴くのが好きだったようです。私は富澤さんを尊敬していたので、「一流になると、さすが洒脱だなぁ」と思ったものです。今回の殿堂入り、私も心よりうれしく思います。

富澤宏哉(とみざわ・ひろや)/1931年、東京都生まれ。小金井高を卒業し、社会人野球審判を経て、55年にセントラル・リーグ審判部に入局。72年米国アル・ソマーズ審判学校に留学。78年の日本シリーズ第7戦の左翼線審で、足立光宏から大杉勝男(ヤクルト)が放った左翼ポール際の飛球を本塁打とジャッジし、上田利治監督(阪急)の抗議を受けて1時間19分の中断をしたこともあった。80年からセ・リーグ審判部長。90年から野球規則委員。97年から全日本野球会議審判技術委員会委員。通算審判員歴35年、ペナントレース3775試合出場、日本シリーズとオールスターに各9度出場。

井野修(いの・おさむ)/1954年、群馬県生まれ。76年、神奈川大学在籍中にセントラル・リーグ審判部へ入局し、2009年まで所属。03年からセ・リーグ審判部長、両リーグ審判部が統合された2011年からNPB初代審判長を務めた。14年〜22年、NPB審判技術委員長兼日本野球規則委員。23年には四国アイランドリーグPlus、ルートインBCリーグの審判部アドバイザーに就任した。通算審判員歴34年、ペナントレース2902試合出場、日本シリーズにも12度出場している。

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