小林雅英は勝てば日本シリーズ進出の大一番で4点差を守れず逆転負け 娘からの「パパのバカ」のひと言に救われた (4ページ目)
【抑え投手の極意】
その第4戦も2対3で連敗して2勝2敗。逆王手をかけられたロッテだったが、第5戦は序盤で2点ビハインドも後半に3点を取って逆転。9回には当然、小林が登板した。
だが、先頭の大村直之を四球で出す。1点差だけに、ベンチも守る野手も心穏やかではなかっただろう。それでも、大喜びで一塁に向かう大村を冷めきった目で見るほど、マウンド上の小林は落ち着いていた。
「自分のなかでは、『ツーベースを打たれるなら、最悪フォアボールでいい』なんです。次の鳥越(裕介)さんはたぶんバントなんで、1点差で一死三塁をつくられるよりも、大村にはボール球を振ってくれたらラッキーって投げて、結果フォアボールでもいいと。案の定、バントで一死二塁になりましたけど、プランどおり。いつも3つのアウトを取るプランを立てていたんですけど、4点差を逆転された時は、ただアウトをほしがって失敗したんです」
冷静なまま後続の柴原洋、川?宗則を打ち取り、胴上げ投手となった。抑えとなって以来、コントロールよく球威十分の球を投げつつ、三者凡退にも無失点にも特別こだわらなかった。与えられた条件の中でどうやって勝って終わらせるか、思考を組み立ててきた小林にとって、投手人生最高の瞬間だった。
阪神を4連勝で下した日本シリーズでも最後を締めた小林は、3年後の08年からインディアンス(現・ガーディアンズ)でプレー。10年に巨人、11年はオリックスと移り、同年限りで現役を引退。その後はオリックス、ロッテでコーチを歴任し、女子野球、社会人野球でも投手を指導していた。あらためて、指導者の目で見て、抑え投手は何が一番大事なのか。
「準備とか技術とか思考は当たり前として、どの状況でもバッターとケンカできるかどうか。僕自身、30歳を超えてガッツポーズしていたのも、ケンカしていたからなんです。"タマの取り合い"じゃないですけど、アウトって『死』って書きますよね。取れなかったら自分が死ぬし、取ったら相手が死ぬ。飄々とやって抑えられるほど、甘いところではないと思ってるんで」
(文中敬称略)
小林雅英(こばやし・まさひで)/1974年5月24日、山梨県生まれ。都留高、日本体育大、東京ガスを経て、98年のドラフトでロッテから1位指名を受け入団。2年目以降はロッテのクローザーとして活躍。2005年は最多セーブのタイトルを獲得するなど、チームの絶対的守護神として「幕張の防波堤」の異名をとった。通算200セーブを達成したあと、MLBのクリーブランド・インディアンス(現・ガーディアンズ)に移籍。帰国後は巨人、オリックスでプレー。11年に現役を引退し、その後はオリックス、ロッテでコーチを務め、19年は女子プロ野球の投手総合コーチに就任。21年から24年まで社会人野球のエイジェックで投手総合コーチを務めた
著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など
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