権藤博は大魔神・佐々木主浩につなぐまでの「中継ぎローテーション」を確立し、横浜を38年ぶり日本一へと導いた (4ページ目)
お互いがモチベーターになり、各投手とも一段と気持ちが入って、ブルペンでいい準備ができてマウンドにいける──。抑えた投手が次もいったら、残る投手のモチベーションはそこまで上がりそうにない。
「ブルペンのなかで競争原理が働いたと思うんです。あいつらにもプライドみたいなものがあったでしょうしね。だから98年の横浜に限って言えば、大魔神がいなかったらもちろんダメですけど、その前がいなかったら大魔神を使えないですもん。そういう点では、中継ぎがよく頑張ってくれて、あのスーパー大魔神が誕生して、優勝できたんだと思います」
周りから見れば「中継ぎのローテーション」だった起用法には、権藤の投手指導経験が凝縮されていた。それはまた、監督と衝突しがちだったコーチ自らが監督になって、実現したものでもあっただろう。
「いちばんラクでした、監督は。『こうしましょう』って言う必要ないですから。そのかわり、ピッチングコーチには必ず言ってましたよ。『どうする?』って。で、『どうしましょう』って言ったら、『じゃあ、オレが決めるぞ』と。それでやられたらやり返すつもりでいて、またやられたら『責任取るのは監督で、やるのは選手』と。優勝するまでずっと言い続けていました」
(文中敬称略)
権藤博(ごんどう・ひろし)/1938年12月2日生まれ。佐賀県出身。鳥栖高からブリヂストンタイヤに進み、61年中日に入団。1年目から35勝を挙げ、最多勝、新人王、沢村賞を獲得。翌年も30勝をマークし、2年連続最多勝に輝いた。だが「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語が生まれるなど連日の登板により肩を痛め、31歳の若さで現役を引退。73年より中日の投手コーチを務め、リーグ制覇に貢献。その後、近鉄、ダイエーを経て、横浜のコーチに就任。98年に横浜の監督となり、チームを38年ぶりのリーグ制覇、日本一へと導いた。監督退任後の2001年からは、野球解説者として活躍。12年には中日の投手コーチに再び就任。17年にはWBC日本代表のコーチも務めた
著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など
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