権藤博は大魔神・佐々木主浩につなぐまでの「中継ぎローテーション」を確立し、横浜を38年ぶり日本一へと導いた (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「その年、戸叶と福盛(和男)、横山(道哉)あたりの若いピッチャーが出てきてね、盛田(幸妃)の出番がなくなってきたんですよ。で、これは盛田のためにもトレードに出そうと。ただし、ピッチャーは要らない。盛田に失礼だし、プライドもあるから。それで私が前にいたチームに当たったら、近鉄と話がまとまって。外野手の中根(仁)と換えたんです」

 プロ10年目の盛田は、96年にリリーフから先発に転向。97年は若手が台頭するなか、右ヒジ故障もあって登板機会が減っていた。だが、近鉄では中継ぎの佐野慈紀がトミー・ジョン手術を受けただけに、実績十分の盛田は願ってもない存在だった。一方、横浜の外野陣は主力と控えの差が大きく、中根の加入によって競争意識が高まることになる。

「中根が入ってきたおかげで、佐伯(貴弘)はライトのポジションを争うようになる。ピッチャーは盛田がいなくなったことで、島田(直也)と五十嵐(英樹)の生かし方がはっきりして、若いのは出番が増える。盛田は盛田で、向こうでしっかり使われる。いいトレードになって、私自身、よかったと思います」

【中継ぎのローテーションの確立】

 そのオフの「いいトレード」はもうひとつあり、内野手・永池恭男との交換で巨人から左腕の阿波野秀幸を獲得。近鉄時代にエースだった阿波野は、88年から2年間、権藤の指導を受けている。95年に移籍した巨人では3年間、ほぼ二軍暮らしだったが、権藤はその力量を熟知。プロ12年目、34歳になるベテランを貴重な戦力として見ていた。

「阿波野は全盛期ほどの球威はなかったですけど、1イニング投げさせたら、それはもうバリバリの力が残ってましたからね。そういう点では、中継ぎのなかでは別格でした」

 監督就任にあたり、抑えは「原則1イニング限定」と決めた権藤。97年の佐々木は49試合で60回と"イニングまたぎ"もよくあったが、右ヒジの手術歴と腰の不安を考慮しての「1イニング」だった。その点、98年、佐々木の前を投げる投手は基本的に連投がなく、「中継ぎのローテーション」と言われた。当時としては画期的だったが、これも故障防止のためだったのか。

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