門田博光も「700本は打てる」と惚れ込んだ逸材 T−岡田は本塁打王以降、何に苦しんだのか「じつはあの年...」 (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro

入団当初のT−岡田 photo by Tanigami Shiro入団当初のT−岡田 photo by Tanigami Shiroこの記事に関連する写真を見る「ホームラン王を獲った翌年、徐々にしっくりいかなくなったのはあります。そもそもバッティングって完成形がないじゃないですか。その年その年、その日その日で体の状態や感覚は違うもの。そのなかで相手投手にアジャストしていかないといけないわけですから、変化することは当然だと思いますし、フォームを変えることも変化のなかのひとつ。だから、ノーステップ打法をやめることに躊躇はなかったです」

 たしかに33本打ったシーズンでも、腕の使い方、スタンスの幅など、細かな変化はあった。

 それに「下半身の負担」もたしかに事実で、岡田ほどの大型選手となればなおのこと。2010年にしても、シーズン終盤にハムストリングを肉離れ。シーズン33本目は、故障を押して出場した先に放った代打逆転満塁本塁打だった。劇的な一発のあと、歩くようにベースを一周する岡田の痛々しい姿は、今もはっきり覚えている。

「体への負担が大きいのと、常に進化したいという気持ちがありました。だから、僕のなかでノーステップ打法は一時的なもので、もともとずっとやるとは思っていなかった。なにより2011年は満足のいく成績を残したわけじゃなく、前の年と比べればまったく物足りなかった。自分のなかで『もっとよくするために』と考えた時、フォームを変えようと。そこに迷いはなかったです」

【タイトル奪取の翌年に統一球導入】

 この時期を振り返ると、プロ野球ではダルビッシュ有(当時日本ハム/現・パドレス)を筆頭に、田中将大(楽天)と言ったパ・リーグの投手のレベルが明確に上がったタイミングであった。さらに、2011年は"統一球問題"に揺れた年。いわゆる飛ばない"統一球"の導入により、とくに長距離砲の打者は苦しんだ。もしボールが変わっていなければ、どうなっていたのだろう。この話題に、岡田は短く答えた。

「あの時、打ったのは西武の中村(剛也)さんだけでしたよね」
※中村は両リーグ唯一の40本超えとなる48本塁打をマーク

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