鹿取義隆は「壊れてもいい」とシーズン63試合に登板 「カトられる」という流行語を生んだ (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「結局、一軍にはいたんだけど、立場的にポジションがどこか、何も言われない、何も決まってないわけ。先発の枠はもう決まっているから、ただ単にリリーフピッチャーになるというだけ。それも当然、抑えじゃなくて、中継ぎ、イコール敗戦処理のようなイメージ。で、抑えはエース級のピッチャーが兼ねていたから、これは過酷だなと思っていました」

 巨人では65年に宮田征典が急台頭したあと、抑え専任的な投手は出現しなかった。現に78年は新浦壽夫が15勝15セーブを挙げて最優秀救援投手賞に輝いたが、先発でも9試合に登板、トータルで189回を投げており、最優秀防御率のタイトルも獲得している。ただ、鹿取が入団した79年はチームに2ケタのセーブを挙げた投手はゼロ。抑えは固定されていなかった。

「だから僕みたいなリリーフは、まず負けているゲームで抑える。次、同点のゲームのワンポイント。次、同点のゲームの1イニング。そうやって一つひとつ結果を出せば、だんだん役割が変わっていく。もちろんダメだったらまた最初に戻るんだけど、打たれないで最後まで投げたら、『セーブついたな』とか、『勝ち星ついた』となる。でも、それは結果的についただけであって」

【江夏豊は最高のお手本だった】

 鹿取は1年目に38試合、すべてリリーフで登板して3勝2セーブを挙げているが、まさに結果的についた数字だったのだ。だが、それでも現状に甘んじることなど一切なかった鹿取は、リリーフ投手の最高峰に注目していた。広島で抑えを務めていた江夏豊である。

「たまたま結果が残った自分と比べて、江夏さんは抑えで結果を出していてすごいなと思っていた。全然、違うなと。広島戦で江夏さんがマウンドに上がれば、どうやって投げるんだろう、こうやって投げるのかと注目していたからね。それはまったく別モノの世界で、他球団ながら最高のお手本だったし、角にしても、江夏さんがいたからリリーフでやっていけたんじゃないかって思います」

2 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る