鹿取義隆は「壊れてもいい」とシーズン63試合に登板 「カトられる」という流行語を生んだ (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「81年に調子が悪くて、結果が残らなかったからしょうがないと思う。藤田さんとしては『鹿取は今のままではダメ』と見ていたんじゃないかな。別に先発にしたかったわけじゃなくて、何かを変えろという提案だったと思う。だから、フォーム変えるのも、先発するのも、決して遠回りじゃなかった。持っている球種を磨かなきゃいけない、ということを強く感じたからね」

 鹿取にとって雌伏の3年間が過ぎ、84年、助監督だった王貞治が監督に就任。同年は48試合、85年はチーム最多の60試合と登板数が増えると、86年は新外国人右腕のサンチェが抑えとなり、鹿取は角とともにセットアッパーを務めることになった。

「サンチェとはいつもキャッチボールしてたけど、ボールの勢いが違った。ひとりだけ150キロ台。別格だなと。それで角が左の横(サイドスロー)、僕が右の横だから、ちょうどバランスが取れて、うしろの3イニング、何とかなったんじゃないかと思う。ただ、投げる順番は不同でね。最後の9回はしんどいから、みんなで助け合っていかなきゃいけないなと」

 実際、86年のセーブ数はサンチェが19、鹿取が4、角が2だった。それが87年はサンチェが不振に陥り、鹿取が抑えを担うケースが増えて7勝18 セーブ。年間130試合だった当時、リーグ最多の63試合に登板したことから、酷使される状況が「鹿取(カト)られる」と表現され、流行語のようになった。

「あの時は、壊れてもいいと思って投げていた。毎試合、マウンドに上がる時に、これが最後かもしれないなと思っていた。それぐらい疲労度が高かったし、王さんが使ってくれることを意気に感じていたし。加減して投げて結果を残さないよりは、全力でいって『ここで壊れてもしょうがない』と。中途半端に投げるよりも、腕を強く振って『これでもか!』ってくらい、全力でね」

(文中敬称略)

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鹿取義隆(かとり・よしたか)/1957年3月10日、高知県生まれ。高知商から明治大を経て、78年にドラフト外で巨人に入団。87年にはリーグ最多の63試合に登板し、優勝に貢献。西武に移籍した90年、最優秀救援投手のタイトルを獲得。97年に現役を引退。98年に巨人の二軍投手コーチを経て、99年から一軍コーチに就任、2000年には日本一に導いた。01年にアメリカでのコーチ留学を経て、02年に巨人のヘッドコーチに就任。投手陣を再建し、優勝に貢献した。その後、侍ジャパンのテクニカルディレクター、U−15の代表監督、巨人のGM兼編成本部長などを歴任。現在は解説者として活躍している

著者プロフィール

  • 高橋安幸

    高橋安幸 (たかはし・やすゆき)

    1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など

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