篠塚和典が明かす松本匡史との決まりごと 長嶋茂雄監督の強い意向に「大変そうだった」 (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

【松本が塁に出た時に意識していたこと】

――1番が松本さん、2番が篠塚さんという打順も多かったですが、ふたりで戦術面について話し合うことはありましたか?

篠塚 松本さんが走るまで僕は打たない、ということですね。なので正直、「早く走ってほしいな」という気持ちも少しはありました(笑)。ただ、牽制がうまいピッチャーもいますし、タイミングが合わなくてスタートが切りにくいピッチャーもいたでしょうから。待っているうちにカウントが追い込まれることもありましたけど、僕は特に嫌な感じはなかったです。

 ただ、「走りにくそうだな」と感じた時には、最初から打っていくこともありました。走れそうな時はだいたい1、2球目で走る傾向がありましたし、走れる時と走れない時の違いは見ていればわかりますから。

――追い込まれても嫌な感じはなかった、ということですが、篠塚さんは追い込まれてからのバッティングに自信があったということでしょうか。

篠塚 そうですね。追い込まれても、ランナーがセカンド(得点圏)に行ってくれれば集中力が高まるというか、気持ちが入りますし。なので、追い込まれてもいいから「松本さんが走ってから勝負しよう」という気持ちで打席に入ることがほとんどでした。

 2番に河埜和正さんが入って、僕が3番を打つ時期もありましたが、どちらかといえば3番のほうがやりやすかったですね(笑)。2番と3番でバッティングがそれほど変わるわけではないのですが、気持ちの面で多少は楽でしたよ。松本さんが塁に出れば、だいたい河埜さんが送ってくれて一死二塁、一死三塁のチャンスで回ってきましたから。決して、2番がやりにくかったわけではないですよ。
 
――松本さんが出塁すると、見る側にも「必ず走って成功する」という期待感がありました。

篠塚 成功率は高かったんじゃないですかね。特に76盗塁したシーズンは、失敗するイメージがありませんでした。相手バッテリーから常に警戒されているなかで走って、セーフになるんですからすごいですよ。1番に松本さんがいることで、初回から相手にプレッシャーをかけられる試合が多かった。松本さんの足は相手バッテリー、野手にもかなりプレッシャーをかけたと思いますよ。

(中編:青い稲妻」松本匡史のすごさ ホーナーの本塁打を「アシスト」した逸話も>>)

【プロフィール】

篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年~2003年、2006年~2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。

著者プロフィール

  • 浜田哲男

    浜田哲男 (はまだ・てつお)

    千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。

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