元巨人広報が見た清原和博の苦悩 「好きなチームに入ったのに、どれだけ窮屈さを感じていたか...」 (2ページ目)

  • 木村公一●文 text by Kimura Koichi

── 記者の数も一般紙、スポーツ紙、テレビ、ラジオでおよそ30社、80名もいたとか。

香坂 春季キャンプですね。でもそれは常駐の数ですから、それ以上の人数と対応していました。翌日以降の取材申請やテレビラジオなどの出演対応もあり、朝から深夜まで働き詰めで、もちろん休みなどなし。疲れきっていた時は風呂にも入れず、部屋の電気もつけっぱなしでスタッフウエアのまま畳の部屋で寝てしまい、朝、目覚めるとそのままの格好で、またグランドに行ったこともありました。もう本当に死にそうって感じでした(笑)。当時は携帯電話もメールもない時代でしたから、シーズン中でも遠征から戻って家に帰ったら、自室がファクス受信した用紙で真っ白に埋まっていて、ファクス用紙の芯が何本も溜まっていった。今の人にそんな光景、わかるかな(笑)。

【メディアの窓口となる広報の仕事】

── 読者の方が広報の人を見るとしたら、テレビ中継でホームランを打った選手などがベンチに戻ってきたとき、そばで話を聞いているスタッフらしき人だったりします。

香坂 コメント取りですね。試合中はテレビも新聞もベンチには入れないので、代わりに広報が話を聞いてコメントを提供する。試合に勝てば、まずはテレビ、ラジオなどの中継対応としてヒーローインタビューの選手を決める。ヒーローは試合の成績から大体判断できるものだけど、決定的な該当者がいない時などは広報が奔走し、チーム内の意見を統一する。仕事はあげていくとキリがないけど、負けた時のほうが比較的ラクでした。

── 夕刊紙や雑誌とは"ケンカ"もありましたね。

香坂 関心を持ってもらえるのはありがたいことでしたが、誹謗中傷記事もかなりありましたからね。巨人の人気がありすぎたということなんだろうけど、叩けば新聞、雑誌も売れるという風潮もありました。だからメディアの窓口となる広報が「チームを守る仕事」も担わなくちゃいけなかった。そんな時代だった。「悪名高き巨人軍広報」なんて言われ方したこともありました。とにかくあの頃は、メディアのさまざまなニーズが殺到していました。写真誌も増え、グラウンドの内外問わずプライベートなシーンでも取材合戦が激しかった。抗議から係争ともなると、当時の広報部長をされた方々はかなりご苦労されていたのを忘れません。

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