近鉄の絶対的エース・阿波野秀幸はなぜ勝てなくなってしまったのか 「登板過多」「左膝の骨折」「西武からのクレーム」... (3ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

── 近鉄時代の仰木彬監督の「マジック」とは、具体的にどのようなものだったと思いますか。

阿波野 仰木監督には5年間お世話になりました。主力投手として信頼してくれたし、故障してからもアテにしてくれたことがうれしかったですね。仰木監督の野球は、データと選手の気持ちを融合させた采配です。たとえば、代打で4打数1安打の打者がいたとします。その実績をちゃんと覚えていてくれるんです。そんなに打っているわけではないのですが、「おまえ、いいところで打っているじゃないか。自信を持って行ってこい!」と送り出されると、「よし、やるぞ!」という気持ちになりますよね。それに子どもが生まれた日に試合に出してくれれば、選手は張りきります。

── 移籍した巨人では96年にリーグ優勝。さらに98年は横浜で日本一を経験されました。「すべてが10・19からつながっている」というコメントを残されています。

阿波野 横浜では近鉄時代の投手コーチだった権藤博さんが監督を務めていて、僕をマウンドに送ってくれました。日本一を決めた西武との第6戦、0対0の8回表一死二塁で登板。3番の髙木大成をセカンドゴロ、4番の鈴木健をレフトフライに打ちとりました。

── 『10・19』からつながっているという理由は?

阿波野 思えば88年の『10・19』では、捕手・山下和彦のストレートのサインに首を振って、高沢秀昭さんにシンカーを同点本塁打にされました。だから、89年の近鉄が優勝を遂げた試合で、最後の打者には全球ストレートを投げました。この日本一を決めた登板でも、谷繁元信とバッテリーを組み、攻める気持ちでストレートを投げ込んだのです。そういう意味で、『10・19』からつながっていたわけです。

── ドラフト1位指名された3チームで、優勝の美酒に酔ったのですね。

阿波野 僕が唯一のようです。まあ、ドラフト1位指名を受けたほかの2球団にもその後、移籍するのは珍しいかもしれません。98年はリリーフで、シーズン50試合に登板しました。

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