近鉄の絶対的エース・阿波野秀幸はなぜ勝てなくなってしまったのか 「登板過多」「左膝の骨折」「西武からのクレーム」... (2ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

── 何度も聞かれたと思いますが、「トレンディエース」と呼ばれたことに対して、どんな心境でしたか。

阿波野 当時は「トレンディドラマ」が流行っていて、それに被せられましたね。取材において、技術的な内容ではなく、開口一番そう言われることに「またか......」と思うことはありましたが、当時のパ・リーグはメディアの露出がほとんどなかったので、注目されることに関して抵抗はありませんでした。

── もうひとりのトレンディエース、西崎幸広さんへのライバル心はありましたか。

阿波野 西崎は日米大学野球の日本代表メンバーだった頃からの知り合いです。利き腕の左右の違いはあれど、細身の体型は似ていましたね。当時のプロ野球界のファッションは、パンチパーマにストライプの入った黒系のスーツが基本でした。僕たちはパンチパーマではなく、ジャケットにチノパン、そういうスタイルが野球界では新鮮だったのでしょうね。

── 成績に関してはどうでしたか。

阿波野 「3年やって一人前だぞ」と周囲に言われたこともあって、プロ入り3年間は200イニングを投げ、そこに"猛牛打線"の援護にも恵まれました。1年目に15勝で新人王、2年目は14勝、3年目は19勝で最多勝。当時、ダントツの強さを誇った西武での先発が多く、西崎との直接対決は少なかったですが、刺激を与え合うライバルだったことは間違いありません。

【ドラフト指名された3球団で優勝を経験】

── 90年に10勝を挙げますが、それ以降は不調に苦しみました。原因はなんだったのですか。

阿波野 いくつもの要因が重なった結果でした。ひとつは、プロ入りしてから3年連続で200イニング以上投げたこと。それに、メディア露出の少ないパ・リーグを盛り上げるために、オフのイベントにも参加したりして、疲労はかなり蓄積していました。次に90年に左膝にライナーを受けて骨折したこと。その時点で9勝だったですが、無理して10勝に到達させました。下半身をケガすると、どうしてもかばって投げるから肩・ヒジに影響が出てきます。さらに相手チームの研究もありました。審判お墨付きの一塁牽制を西武に「ボークだ!」と指摘されました。それからクイックを練習したり、いつもどおりの投げ方ができなくなり、ヒジを痛めてしまった。今ならトミー・ジョン手術という選択肢もあったのでしょうね。

2 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る