斎藤佑樹が絶対に泣かないと思っていた鎌ヶ谷でのラスト登板で涙 「幸太郎のせいです」
2021年10月3日、鎌ヶ谷スタジアム──この日、斎藤佑樹はファイターズのユニフォームを着て、鎌ヶ谷で投げた。鎌ヶ谷スタジアムでの最後の登板だった。プロ11年目の斎藤はこの2年、一軍での登板機会がなかった。つまり引退間際の彼の主戦場はこの鎌ヶ谷で、現役引退を決めた斎藤にとって、この場所には特別な想いがあった。
鎌ヶ谷での最後の登板を終え、清宮幸太郎(写真右から二人目)と抱き合う斎藤佑樹 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【鎌ヶ谷でのラスト登板】
プロ野球選手ですから一軍で投げなければダメなんですよね。つまりファイターズでは札幌で投げていないとダメなんだと、当然ながらずっと思っていました。でも残念ながら、僕は二軍......鎌ケ谷で投げることが多くなってしまいました。だからこそ、僕の心のなかの鎌ヶ谷にはいろんな想いがあります。たくさんの思い出が詰まった鎌スタで最後、登板の機会をいただけたことはものすごくありがたいことでした。
あの日の登板は6回から、バッターひとりと決まっていました。5回が始まるとブルペンで準備を始めます。たぶん、40球近く投げたと思います。投げ終わった時、(柿木)蓮がタオルと水を手渡してくれました。リリーフピッチャーがブルペンを出て行くときって、他のピッチャー陣がつくってくれた花道を通り抜けて、拍手で送り出されるんです。ああ、これも今日で最後なんだなと思いました。
それでもわりと冷静だったのに、マウンドに着いた途端、めちゃくちゃ感情を揺さぶられてしまいます。(早実の後輩、清宮)幸太郎のせいです(笑)。僕がマウンドに上がったら、幸太郎が泣きながら歩み寄ってきて、耳元で「楽しんで投げてください」って言うんです。このまっすぐな言葉に、絶対に泣かないと思っていたのに、涙が溢れてきちゃいました。
幸太郎は試合が終わってから「結果に追われるスポーツだからこそ、最後くらいは思い切り楽しんでほしいなと思ったんです」と言っていました。ホント、幸太郎らしい言葉ですよね。引退することを決めてあらためて思ったのは、僕はいろんな人に恵まれたな、ということでした。プロで11年やってこられたのはそういうたくさんの人が周りにいてくれて、いろんな形で支えてもらっていたからだと、つくづく思います。
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著者プロフィール
石田雄太 (いしだゆうた)
1964年生まれ、愛知県出身。青山学院大卒業後、NHKに入局し、「サンデースポーツ」などのディレクターを努める。1992年にNHKを退職し独立。『Number』『web Sportiva』を中心とした執筆活動とともに、スポーツ番組の構成・演出も行なっている。『桑田真澄 ピッチャーズバイブル』(集英社)『イチローイズム』(集英社)『大谷翔平 野球翔年Ⅰ日本編 2013-2018』(文藝春秋)など著者多数。