斎藤佑樹が絶対に泣かないと思っていた鎌ヶ谷でのラスト登板で涙 「幸太郎のせいです」 (3ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta

 でも、そんな魔法のような治療法があるはずもなく、すぐに、やっぱりダメなのかと......それでも頭の半分はそうやってもう無理だなと考えながら、もう半分では、シーズンが終わったら1カ月、地道にストレッチをして治療に専念すればどうにかなるのかな、なんてことをやけに現実的に考えていた自分もいたんです。

 希望と絶望の気持ちが行ったり来たりするなかで、最終的に引退のほうへ振り切れたのは(当時のファイターズのGMだった)吉村(浩)さんと話したからでした。何しろ吉村さんは魔法使いですから(笑)、何か画期的な僕の生かし方を提案してくれるかな、なんて人任せなことを期待していたのかもしれません。

 でも、結果を出せなかったら辞めることを覚悟してそのシーズンの契約をしてもらったというところに立ち返れば、自分で決めなきゃダメだと腹を括ったんです。だから吉村さんの顔を見ていたら、自然と「現役を引退します、今までありがとうございました」と伝えていました。

【最後の1年は野球の神様からのご褒美】

 引退を決めて、最初に浮かんだのは次に何をやるべきか、ということでした。ふつうなら過去を振り返ったり、懐かしんだりするんでしょうけど、そういう感じじゃなかったんです。もちろん野球人生、悔いはいっぱいありすぎて......そのいっぱいは、大きいのがいっぱいじゃなくて、本当に細かい、小さいことがいっぱい、という感じでした。

 ボタンを掛け違えてしまった感覚があったとするなら、最初にズレたのは夏の甲子園が終わって行ったアメリカ遠征です。あの時、技術的な感覚がズレてしまった気はしています。

 夏の甲子園の僕は、変化球はほとんどがスライダーでした。フォークはたまに投げるくらいだったのに、アメリカではフォークばっかり投げたんです。それはフォークの調子がものすごくよかったからでした。甲子園のマウンドはすごく軟らかいのに、アメリカのマウンドって土が硬いじゃないですか。その硬いマウンドに適した投げ方をすると、フォークがやたらと落ちてくれるんです。それでフォークの味を覚えてしまって......でも、いま思えば、それが落とし穴でした。

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