「首位打者は落合じゃなくシノが獲れ!」1987年、タイトル争いから離脱した中畑清は、篠塚和典に発破をかけた

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

篠塚和典が語る「1980年代の巨人ベストナイン」(5)

中畑清 中編

(前編:「元気ハツラツ」中畑清の素顔「ミスターをかなり意識していた」>>)

 篠塚和典が「1980年代の巨人ベストナイン」で6番・ファーストに選んだ中畑清氏。そのエピソードを振り返る中編では、共に首位打者争いを演じた1987年シーズンに中畑氏からかけられた言葉、守備位置についている際のやりとりなどを聞いた。

若き原辰徳(左)とファンの声援に応える中畑清 photo by Sankei Visual若き原辰徳(左)とファンの声援に応える中畑清 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

【首位打者争いで「シノが獲れよ!」】

――以前、ウォーレン・クロマティさんは広角に打つ篠塚さんの影響もあり、逆方向への打球を意識し始めたというお話をお聞きしましたが、中畑さんはいかがでしたか?

篠塚和典(以下:篠塚) 最初の頃はパワーで引っ張るプルヒッターの印象が強かったです。ただ、プロの世界である程度成績を残していくためには、逆方向へ打つことも含めて、フィールドを広く使えるバッティングが必要だと思ったんでしょうね。日頃のバッティング練習からも、その意識を感じるようになりました。

 それが僕の影響かどうかはわかりませんが、クロウ(クロマティさんの愛称)と同じように、逆方向へ打つ意識は自然と高くなっていったような気がします。ミスター(長嶋茂雄氏)からもそういう指導を受けたでしょうしね。やっぱりそういう意識がないと、あれだけの生涯打率(.290)は残せませんよ。

――1987年シーズンのセ・リーグでは、篠塚さんと中畑さん、落合博満さん(中日)、正田耕三さん(広島)が首位打者争いをしていました。中畑さんの打率は意識していましたか?

篠塚 チームメイトではありますが、首位打者を争うライバルでもありましたし、切磋琢磨できたというか、高いモチベーションを維持できる要因になっていました。「中畑さんに負けないように」という意識は常に持っていましたよ。ただ、中畑さんは途中でケガをしてしまって試合に出られない時期があったんです。

――中畑さんはその後、復帰して規定打席にも到達しましたが、シーズン最終盤にノーヒットの試合が続いて打率を落としてしまいましたね(最終的にはリーグ6位の打率.321)。

篠塚 そうでしたね。ちょうどその頃、中畑さんに「首位打者は、落合じゃなくシノ(篠塚氏の愛称)が獲れよ!」と発破をかけられました。

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プロフィール

  • 浜田哲男

    浜田哲男 (はまだ・てつお)

    千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。

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