中畑清のアテネ五輪監督代行を聞いた篠塚和典は「プレッシャーで体を壊してしまうんじゃないか」と心配になった
中畑清 後編
(中編:「首位打者は落合じゃなくシノが獲れ!」1987年、タイトル争いから離脱した中畑清は、篠塚和典に発破をかけた>>)
篠塚和典氏が語る中畑清氏のエピソードの後編では、中畑氏が巨人の一軍打撃コーチ就任1年目に入団した松井秀喜との関係、アテネ五輪・野球日本代表で監督代行を務めた中畑氏に対する見解などを聞いた。
打撃コーチとして、巨人1年目の松井秀喜(右)に指導する中畑清 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【長嶋と中畑による松井育成】
――中畑さんは1989年に現役を引退後、長嶋茂雄さんが巨人の監督に復帰した1993年に一軍打撃コーチに就任しました。篠塚さんはまだ現役でしたが、コーチとしての中畑さんをどう見ていましたか?
篠塚和典(以下:篠塚) 明るい性格ですから、選手たちとしっかりコミュニケーションを取りながらやっていましたよ。ちょうど松井秀喜(1992年ドラフト1位)が入ってきた時期だったので、ミスター(長嶋茂雄氏)と一緒に松井を育てていく計画を立て、育成に力を注いでいた時期だったと思います。
当時はミスターも中畑さんも、「松井をなんとか一人前にしなきゃいけない」という思いがすごく強かった。松井は中畑さんの家にも行って、素振りをしたりしていたようですしね。
――松井さんを巨人の4番に育てるための「1000日計画」も話題になりましたし、期待の大きさを感じました。
篠塚 そうですね。それと、コーチが頭を悩ませるところなのですが、一度に選手を2、3人も育てることは難しいんです。「この年はこの選手を育てて、何年か後に出すんだ」と、ある程度バチッと決める。次の年には別の選手を選んで......という感じで、毎年計画を立てながらやっていくので、当時の中畑さんはかなり松井にべったりだったんじゃないですか。
――中畑さんが一軍打撃コーチに就任した年は、長嶋さんの復帰と松井さんの入団も重なり、マスコミが例年以上に多かったですね。
篠塚 ミスターの復帰だけでも大きな話題でしたが、甲子園での5打席連続敬遠などもあって、松井も騒がれていましたからね。松井は素材としても「巨人の4番にふさわしい」と思われていたからこそ、あれだけ育成に力を入れたんでしょう。
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プロフィール
浜田哲男 (はまだ・てつお)
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。