中畑清のアテネ五輪監督代行を聞いた篠塚和典は「プレッシャーで体を壊してしまうんじゃないか」と心配になった (2ページ目)
【アテネ五輪で監督代行になった中畑への心配】
――松井さんの入団当初のバッティングはインパクトがありましたか?
篠塚 ありましたね。宮崎キャンプの時だったのですが、バッティング練習での打球がバックスクリーンの上を越えていきましたから。球場はそれほど広くなかったですが、それでもバックスクリーンの上を越えていく打球なんて、そうそう見ません。高津(臣吾)から打ったプロ第1号のホームラン(1993年5月2日)の打球も速かったですし、「高校を卒業したばかりの選手が打つ打球じゃないな」と思いましたね。
――中畑さんの打撃コーチ2年目、1994年には、中畑さんと同学年の落合博満さんがFAで巨人に移籍してきました。
篠塚 同学年で気心が知れた仲だったでしょうし、いい感じでコミュニケーションを取っていました。それと、落合さんが4番に座ったことで、3番の松井にもいい影響があったと思います。中畑さんも、落合さんは"打線の核"として頼っていたと思いますよ。
――落合さんのバッティングはいかがでしたか?
篠塚 ボールのとらえ方は、本当に天才だと思います。広角に、単打も長打も自在に打てて、3度の三冠王を達成した。ホームランにしろヒットにしろ、"狙えば打てる"という感じ。落合さんが巨人に入ってからバッティング練習を見る機会が増えましたが、いつも楽しみにしていましたよ。僕は現役最後の年だったのですが、落合さんのバッティングはいい勉強になりました。
――長嶋さんと中畑さんといえば、アテネ五輪の野球日本代表で監督とヘッドコーチという関係でした(長嶋氏が脳梗塞の影響で離脱後は、中畑氏が監督代行として指揮を執った)。初めてオールプロで結成されたドリームチームとして、金メダル獲得が至上命題とされていましたが結果は銅メダルでした。
篠塚 日の丸を背負うわけですし、相当なプレッシャーがあったでしょうね。野球の日本代表として金メダルを獲ることは、ミスターも目標にしていたでしょうし、中畑さんもそれを手助けする立場として、かなりの意気込みと覚悟で臨んだと思います。
なので、金メダルを獲ってほしいと思っていたところで、ミスターがああいうことになってしまった。中畑さんが監督代行となったわけですが、「これはちょっと大変かな」と思いましたね。先ほど(前編で)もお話しましたが、中畑さんはすごく繊細なので、「プレッシャーで体を壊してしまうんじゃないか」と、とにかく心配していました。
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