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10年目の斎藤佑樹を襲ったプロ野球人生最大の悪夢 「ファイターズが契約してくれる以上は自分にできることをやるしかない」 (4ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta

 こうと決めたら、迷いはありませんでした。もしかしたらこれは人間の悪い部分でもあると思うんですけど、僕もヒジの靱帯が切れていたことを自分のなかで言い訳にしたところはあったと思います。思うようなボールが投げられなかったのは力のせいでも歳のせいでもなく、ヒジの靱帯が切れていたせいだったんだと......じゃあ、結果が悪くてもしょうがないよねって、そう思いたかったんでしょうね。でも、だからこそ、ヒジが治ればいいボールを投げられるはずだと、前向きに考えることができたんです。

 だから、あのリハビリは辛くて苦しいというより、やり甲斐があって楽しいイメージしか残っていません。年齢的にもキャリアから考えても崖っぷちだったはずなのに、なぜなんでしょうね。

 周りからはよく「いろいろな雑音に神経を使って大変だね」と言われましたが、そんなに大変だと感じてもいなかったし、今に始まったことでもないと思っていました。

 ファイターズが契約してくれる以上は周囲の雑音に耳を傾けるよりも自分にできることをやるしかなかったし、自分なりに納得できるリハビリを続けていこうと考えました。

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 10年目を終えたところで手にした勝ち星は15。この3年は勝つことができず、10年目は一度も一軍に上がれなかった。プロ11年目、またも結果が残らなければ12年目はやってこないかもしれない。そんなことは誰に言われるまでもなく、斎藤自身がとっくに覚悟している。あの夏の甲子園から15年、ついに斎藤佑樹、最後の勝負が始まろうとしていた。

次回へ続く


斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)/1988年6月6日、群馬県生まれ。早稲田実高では3年時に春夏連続して甲子園に出場。夏は決勝で駒大苫小牧との延長15回引き分け再試合の末に優勝。「ハンカチ王子」として一世を風靡する。高校卒業後は早稲田大に進学し、通算31勝をマーク。10年ドラフト1位で日本ハムに入団。1年目から6勝をマークし、2年目には開幕投手を任される。その後はたび重なるケガに悩まされ本来の投球ができず、21年に現役引退を発表。現在は「株式会社 斎藤佑樹」の代表取締役社長として野球の未来づくりを中心に精力的に活動している

著者プロフィール

  • 石田雄太

    石田雄太 (いしだゆうた)

    1964年生まれ、愛知県出身。青山学院大卒業後、NHKに入局し、「サンデースポーツ」などのディレクターを努める。1992年にNHKを退職し独立。『Number』『web Sportiva』を中心とした執筆活動とともに、スポーツ番組の構成・演出も行なっている。『桑田真澄 ピッチャーズバイブル』(集英社)『イチローイズム』(集英社)『大谷翔平 野球翔年Ⅰ日本編 2013-2018』(文藝春秋)など著者多数。

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