元DeNA、巨人・山口俊が語る先発転向と落涙のFA宣言「ベイスターズに残りたい気持ちもあった」 (2ページ目)
【投げ方が分からなくなり、球速が130キロにまで落ちたことも】
――相撲取りにはなりたくなかったから。
山口 はい。それに「人と同じことをやっていては成長のスピードは変わらないから、人がやっていない時にトレーニングすることが大事だ」とも言われていたので、雨の日であっても毎日のように走り続けました。もちろん最初は嫌だったんですけど、日課になると、走らなければいけないという強迫観念に駆られるんです。結果的に努力は裏切らないというか、走り続けてきたことによって「自分はこれだけやってきたから大丈夫だ」って思えるようになり、野球でも結果を出せるようになったんです。
――柳ヶ浦高時代に2度の甲子園出場を果たすと、2005年の高校生ドラフトで横浜ベイスターズ(当時)から1位指名されました。
山口 うれしかったというよりも、"スタート地点に立ったな"っていう感覚でした。目標だったドラフト1位入団をクリアして、"よしこれからが勝負だぞ"って。
――ルーキーイヤーから一軍のマウンドに立ちました。先発として初登板、初勝利を収めるなど結果を出しましたが、しかしその後、4年目まで苦しい時間が続きましたね。
山口 最初は怖いもの知らずで、どんどんストライクを投げ込んで、結果的に抑えられてはいたんですが...。経験を重ねていくほど、甘い球は痛打されますし、制球力をつけなくちゃと思って。でもそうすると腕がどんどん縮こまって、腕の振り方、ストレートの投げ方を忘れてしまって......。2年目はほぼファームでの生活だったのですが、一時期ストレートの球速が130キロぐらいしか出なくなってしまったんです。
――えっ、イップスのような感じですか?
山口 そうですね。3年目のキャンプインの時、当時ファームの投手コーチだった吉田篤史さんといろいろ話して、マンツーマンで見てもらったんです。膝立ちでのネットスローから始めて、吉田さんは徹底的に付き合ってくださいました。そうしたら夏場にようやく150キロに戻すことができたんです。振り返れば、あそこがベイスターズでの1度目のターニングポイントでしたね。
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