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「まるで詰め将棋」自信家の新谷博が唯一「この人には勝てない」と絶賛した投手がいた (3ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

── 2001年に引退後は、日本ハムコーチ(02〜04年)を経て、筑波大大学院でスポーツコーチングをあらためて学ばれました。以後、女子野球の尚美学園大の監督、西武ライオンズレディースの監督、23年からは明治安田生命のヘッドコーチをされています。指導者としてのポシリーは?

新谷 アマチュア時代は佐賀商の板谷英隆監督、駒澤大の太田誠監督、日本生命の井尻陽久監督、プロ入り後は森祇晶監督、東尾修監督、大島康徳監督、トレイ・ヒルマン監督と7人の監督に仕えました。とくに影響を受けたのが、太田監督と森監督です。太田監督は戦国・東都リーグにおいて、「人の心理を読む野球」で高い勝率を誇りました。森監督にしても、西武は巨大戦力と言われていましたが、それを的確に使いこなすマネジメント能力に長けていました。

── そのふたりの野球を礎とした「新谷野球」とは?

新谷 私は、野球は"詰め将棋"と同じだと考えています。何百手、何千手先を読む。たとえば、7回にスクイズをしたいから、1回にバントの構えをしておく。選手という駒をどうやって使うのか。そして相手が考えていることを読み、的確に対応する。相手の心を見るためには、自分の心が整っていないといけない。「新谷野球」も、言わば「心理野球」なのです。


新谷博(しんたに・ひろし)/1964年7月14日、佐賀県生まれ。佐賀商のエースとして、82年の夏の甲子園でノーヒット・ノーランを達成する。同年ドラフト2位でヤクルトから2位で指名されるも拒否して駒澤大へ進学。その後、日本生命を経て、91年ドラフト2位で西武に入団。94年に最優秀防御率のタイトルを獲得し、この年から3年連続2ケタ勝利を挙げるなど、西武の主力として活躍。2000年に日本ハムに移籍し、01年に現役引退。引退後は日本ハムコーチ、尚美学園大学女子硬式野球部監督、埼玉西武ライオンズ・レディースの監督などを歴任。23年から明治安田生命のヘッドコーチに就任した。

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