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篠塚和典「クロマティは日本シリーズで恥をかいて守備が変わった」 巨人最強助っ人の愛すべき素顔 (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

――ちなみに、クロマティさんに最初に話しかけたのは篠塚さんだそうですね。

篠塚 そうです。多摩川の練習グラウンドだったのですが、クロウがポツンとしていたので、声をかけて一緒にランニングなどをしました。ランニングをする時は近くに通訳はおらず、僕も英語が話せるわけではないので、野球に関する単語を言ってみたり、簡単な挨拶をする程度だったのですが、話しかけたらクロウもパッと答えてくれて。お互いにしっかり理解できているのか微妙な感じの、ぎこちない会話ではありましたが、今でもクロウは「あれで気持ちが楽になった」と言ってくれています。

 先ほども話しましたが、当時の外国人選手は日本でプレーしても1、2年の選手が多かった。そこで活躍した選手もいましたが、日本の環境に馴染めず、力を発揮できずに帰っちゃうのも寂しいじゃないですか。

――クロマティさんには、話しかけたくなる雰囲気があった?

篠塚 それもあったかもしれません。一方でホワイトやスミスなど、メジャーでガンガンやっていた選手にはそれほど声をかけなかったかな......。避けていたわけではないですよ。外国人選手が入団してチームに合流した時に、チームメイトの前で自己紹介をしたりしますが、その雰囲気を見ればだいたいどういう性格なのかわかります。そういうのを見ながら、それぞれの選手への接し方を考えていました。

 あと、ひと癖もふた癖もある外国人選手がいますからね。どうしても日本の野球が下に見られてしまうというか......。今は日本の野球のレベルが上がり、日本人選手がメジャーでも活躍している時代なのでそういうことはほとんどなくなっていますが、当時は「日本でプレーするのが嫌になったら帰る」といった選手もいました。クロウにはそれがありませんでしたね。

(後編:なぜ宮下昌己に「伝説の右ストレート」を放ったのか? 篠塚和典が明かす大乱闘の舞台裏>>)

【プロフィール】

篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年~2003年、2006年~2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。

著者プロフィール

  • 浜田哲男

    浜田哲男 (はまだ・てつお)

    千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。

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