クロマティはなぜ宮下昌己に「伝説の右ストレート」を放ったのか? 篠塚和典が明かす大乱闘の舞台裏

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

篠塚和典が語る「1980年代の巨人ベストナイン」(4)

ウォーレン・クロマティ 後編

(中編:「クロマティは日本シリーズで恥をかいて守備が変わった」 巨人最強助っ人の愛すべき素顔>>)

 篠塚和典氏が語るウォーレン・クロマティ氏のエピソードの後編では、1987年の中日戦で起きた伝説の乱闘、ファンと一緒に万歳三唱するパフォーマンス、2人の"ライバル関係"などについて聞いた。

1987年6月の中日戦で宮下昌己から死球を受け、殴りかかったクロマティ Photo by Sankei Visual1987年6月の中日戦で宮下昌己から死球を受け、殴りかかったクロマティ Photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

【宮下に殴りかかる場面以前にあった伏線】

――クロマティさんといえば、今も語り継がれている中日戦での乱闘(※)が思い出されます。中日・宮下昌己投手からデッドボールを受けると、マウンドに向かっていってパンチを浴びせるなど激怒しました。あれだけ怒るのは珍しいように思います。

(※)1987年6月11日、藤崎台球場(熊本)で行なわれた巨人対中日戦。宮下から背中にデッドボールを受けたクロマティが激怒。宮下に右ストレートを浴びせたことをきっかけに、両軍が入り乱れての大乱闘となった。

篠塚和典(以下:篠塚) 確かに、クロウ(クロマティ氏の愛称)はそんなに怒るタイプではないですし、珍しかったですね。ただ、中日からデッドボールを受けるのはこの時だけではありませんでしたから。チームメイトがぶつけられることも多く、仲間思いのクロウの溜まりに溜まったものが爆発したんじゃないかと。

――そこに至るまでの伏線があったということでしょうか。

篠塚 当時の中日は、ピッチャーが相手のバッターにボールをぶつけても、「謝る態度を見せないように」と星野仙一監督から言われていたと思うんです。この時だけではなく、中日のピッチャーたちはデッドボールの後でも「なんだよ」という感じの態度を取っていましたから。

 僕らは「デッドボールを受けても、バッターはやり返すなよ」と言われていました。やり返しても、後で絶対にやり返される。特にキャッチャーが狙われてしまいます。だから、デッドボールを受けたらバッティングでやり返そうと。

ただ、「ここはやり返さないといけないだろう」という場面は別ですよ。狙って投げてきたのと、偶然に当たってしまった時の違いは雰囲気でわかりますしね。

――当時の中日戦では、常にそういうことを覚悟していたんですか?

篠塚 3連戦であれば、1回ぐらいはデッドボールがあるだろうと。それくらいの覚悟で臨んでいましたね。あの時のクロウは、相当に怒りが溜まっていたと思いますよ。

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