篠塚和典が語る、クロマティが「4割バッター」に迫った1989年 「大好き」と語っていた投手とは? (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

【クロマティが「大好き」だったピッチャー】

――1989年には打率.378という驚異的な記録を残しましたが、なぜあれだけのハイアベレージを残せたと思いますか?

篠塚 自信でしょうね。巨人で5年くらいプレーして日本のピッチャーを理解して、どういうバッティングをすれば打率が上がるのか、という感覚を掴んでいったんだと思います。その当時は、「どんなコースのボールでもある程度は捉えられる」という自信があったはずです。そうでなければ、あれだけの打率は残せません。

 苦手なピッチャーもいたかもしれませんが、得意なピッチャーで打率を上げる感じだったんじゃないかなと。自分もそうでしたが、打てないピッチャーに関しては無理に「打とう」とは思っていなかったはずです。

――クロマティさんが得意だったピッチャーは?

篠塚 尾花高夫(元ヤクルト)は「大好き」と言っていましたね(笑)。ヤクルト戦で高野光から頭にデッドボールを受けて病院に搬送されたことがあったのですが、次の日の試合に代打で出て、尾花から満塁ホームランを打ったこともありました。あれも左中間へのホームランでしたが、広角に打つ意識があったからこそでしょう。

――1989年の話に戻りますが、シーズンの規定打席(※)に到達していた時点で打率が4割を超えていました。当時、プロ野球史上初の4割バッターがついに誕生するのか、という期待が高まりましたが、チームメイトとしてどう見ていましたか?

(※)当時はシーズン130試合制。規定打席は試合数×3.1=403打席。

 篠塚 4割を達成してほしい、と期待していましたよ。周囲からそういう目で見られてプレッシャーも相当だったはずなのですが、彼はすごく陽気な性格ですし、最後まで楽しんでプレーしていたように見えました。外国人選手は「常に試合に出たい」という気持ちが強いので、打率を維持するために試合を休むという考えはなかったと思います。

(中編:「クロマティは日本シリーズで恥をかいて守備が変わった」 巨人最強助っ人の愛すべき素顔>>)

【プロフィール】

篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年~2003年、2006年~2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。

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