92年以降の阪神低迷に真弓明信は自責の念 亀山と新庄を「ちゃんと教育しとかなかった」 (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「それと、優勝争いして最後に逆転されたにしても、勝ったヤクルトとは2ゲーム差。ならば次の年はいいはずなんだけど、何で悪いんや......っていう話で。当然、よかったところはわかっておかないといけないし、弱いところは補強していく。その補強の仕方がね、もうめちゃくちゃなんです。オフに野田を出してね」

 投手陣はよかったが、打てなかったことが敗因。そこで球団は92年オフ、同年8勝を挙げた野田をオリックスに放出し、ベテラン強打者の松永浩美を獲得した。攻撃陣の補強は必要としても、先発の柱になり得る野田を出す方針が、真弓には理解できなかった。

 実際、翌93年の野田は17勝を挙げて最多勝に輝く。一方、松永は故障離脱した影響で80試合の出場に留まり、打率.294、8本塁打、31打点。阪神は4位に転落した。しかも松永は93年オフ、FAでダイエー(現・ソフトバンク)に移籍する。史上初のFA権行使による移籍だったが、結果的にトレードは大失敗に終わった。

「もう『フロント、何してんねん!』って言ってましたから。そもそも91年に(高橋)慶彦が来た時も半分落ち目やったし、連れてきてどないすんねん......って思いましたよ(笑)。慶彦には悪いけど。あの頃、本当に下手やった、フロント」

 補強がうまくいかなかっただけではない。92年は台頭した亀山、新庄が打線を引っ張ったところもあっただけに、ふたりがもう少し順調に成長してくれたら、という思いも真弓にはある。

「92年のあと、阪神(の好調)が続かなかったのは、亀山と新庄のせいかもしれないですよ。いや真面目な話、彼らは不安定やったから。亀山はケガが多かったり、新庄は唐突に『野球辞めます』って言ったり......。でも、それは僕らのせいかもしれない。若い時にちゃんと教育しとかなかったから。『私生活からちゃんとしとけよ』ってアドバイスはしましたけどね」

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