1992年の猛虎伝 阪神移籍後の高橋慶彦は「新庄と代えて」と進言「真面目な話、心残り」 (2ページ目)
1月の自主トレは岡田らとともに沖縄・石垣島で行なう予定だったが、現地で打撃練習ができないことがわかると直前に変更し、甲子園でスタート。その初日に「結果を出すまでは何も言わない」とコメントしていた。「結果を出そう出そうと思って空回りしてしまった」という移籍1年目を踏まえ、2月のキャンプでは変わらぬ練習量。意気込み十分で充実の毎日だった。
【二軍に落としてくれ】
開幕戦から遊撃は久慈だったが、高橋は4月12日の中日戦、7試合目に7番・遊撃で先発出場。同15日の大洋戦からは5試合連続で先発したが、結果的にそれが最後になった。以降は代打、代走要員となり、5月22日には二軍降格。この時、オマリーが右手骨折で離脱して新庄が一軍に昇格したと報じられたが、実際にはそれ以前、高橋がコーチに進言していたという。
「自分で『二軍に落としてくれ』って言ったの。『もういいから、新庄と代えて』って。新庄はいい選手だと思っていたし、若かったしね。もう幕を引くのは自分やけんね。で、その年に辞めたろ? オレ」
降格後は一度も一軍に上がれず、高橋は同年限りで現役を退くことになる。代わりに上がった新庄がブレイクし、亀山努とともに人気となり、"亀新フィーバー"と称されたことは高橋も覚えがあるという。そうした若い力の台頭もあって最後は2位になったが、優勝争いしたチームをどう見ていたのか。
「2位? 快進撃した? 二軍にいたら全然関係ないからね。昭和50(1975)年のカープ初優勝の時だって、二軍にいたから関係なかったし。で、その年でやめるのは自分のなかで決めて。しがみついてまでやる気はなかったから。あっさりしてたよね」
では、広島で優勝経験も豊富な高橋から見て、92年の阪神が最終的に勝てなかった要因はどこにあったのだろう。
「当時のメンバーをいま見れば......という話やけど、弱いよね。軸がおらんもんね。マイク(仲田幸司)が14勝で勝ち頭といっても、負けも多いやろ。打線も『(ランディ・)バース、掛布(雅之)、岡田』って言われたようなしっかりした中軸じゃないし。92年はオマリー、ジム・パチョレックがよく打ったけど、オカはあんま出てなかったんやね」
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