梨田昌孝が振り返る「江夏の21球」無死満塁になって西本幸雄監督の表情が「ふっと緩んだように見えた」 (4ページ目)
――あと一歩のところで日本一を逃してしまいましたが、試合後に西本監督は何か話をしましたか?
梨田 いや、何もなかったですね。一番悔しかったのは西本さんでしょうし。初めて監督に就任した大毎時代の大洋との日本シリーズ(1960年)も、第2戦でのスクイズの失敗が響いて日本一を逃していますしね。結局は(大毎、阪急、近鉄で監督を歴任して)通算8回日本シリーズに出て、一度も日本一になれなかった。悲運といえば、悲運の監督なのかもしれません。
阪急の監督時代に巨人と日本シリーズで対戦した時(1971年)は、1-0とリードした第3戦の9回で、長嶋茂雄さんが二死一塁から打ったボテボテのゴロをショートが捕れずにヒットになり、その後に王貞治さんが逆転サヨナラ3ランを打って負けた。当時の私は高校生でしたが、ラジオの放送を夢中で聞いていました。
――西本さんの歴史を知っていると、日本シリーズでどうしても勝たせてあげたいという気持ちが、梨田さんにもあった?
梨田 そういう気持ちは強かったです。「歴史は繰り返す」と言いますが、スクイズ失敗での敗戦はショックでしたね。引退後、ゴルフで西本さんとご一緒させていただく機会がけっこうあったんですが、日本シリーズのスクイズのことは話題にできませんでした。西本さんから話を振られることもなかったですね。
――常に「日本一になる」という目標があったからこそ、西本さんは"闘将"であり続けたのかもしれませんね。
梨田 そうですね。選手を集めて檄を飛ばすことはほとんどなく、広島との日本シリーズでもみんなの前で何かを話すことはありませんでしたし。ただ、試合では常に先頭に立ってくれて、抗議もすごかった。「選手を守る」という意味もあったと思いますが、試合を放棄してしまいそうな剣幕でしたし、すごい闘志だなと。とにかく勝利への執念がすごかったですね。
(後編:目指した監督像は、西本幸雄と仰木彬の「いい部分を融合させた形」だった>>)
【プロフィール】
梨田昌孝(なしだ・まさたか)
1953年、島根県生まれ。1972年ドラフト2位で近鉄バファローズに入団。強肩捕手として活躍し、独特の「こんにゃく打法」で人気を博す。現役時代はリーグ優勝2 回を経験し、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞4回を受賞した。1988年に現役引退。2000年から2004年まで近鉄の最後の監督として指揮を執り、2001年にはチームをリーグ優勝へと導いた。2008年から2011年は北海道日本ハムファイターズの監督を務め、2009年にリーグ優勝を果たす。2013年にはWBC 日本代表野手総合コーチを務め、2016年に東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任。2017年シーズンはクライマックスシリーズに進出している。3球団での監督通算成績は805勝776敗。
著者プロフィール
浜田哲男 (はまだ・てつお)
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。
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