『プリンスホテル野球部物語』駒澤大主将で日本代表の石毛宏典は練習に困惑「ぬるかった」 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

 教師の道は断念した石毛だったが、社会人野球に進んで指導者になる道は見えていた。ベストナインを6度受賞した在学中、後楽園球場のスタンドで都市対抗野球大会を観て「いいなあ」と感じていた。一選手として、この大会に出たい。ならば社会人野球だという思いもあった。だからこそ、太田が命じた行き先に驚かされた。

「というのは、駒澤もある面では野球の名門で、卒業生の多くが社会人野球の主力選手だったり、監督、コーチの方もおられたり。そうすると、石毛がプロに行かないならウチのチームにくれよとか......それなのに何でそんな新しいチームに石毛を行かせるんだ、といったOBの反発もたぶんあったとは思うんですよね。でも、太田誠は絶対ですから、『はい』と」

【オリンピックを目指すための人材集め】

 78年11月14日、東京の品川プリンスホテル。同社社長の堤義明が会見し、第三次入社内定選手として、石毛のほか捕手の中尾孝義(専修大/元中日ほか)、金森栄治(早稲田大/元西武ほか)らの名を発表した。ほかのメンバーは捕手の堀場秀孝(慶應義塾大/元広島ほか)、内野手の居郷肇(いごう・はじめ/法政大/元西武球団社長)、中屋恵久男(早稲田大)と東京六大学の主将が3名。

 さらには投手の堀田一彦(専修大)、松岡憲次(立命館大)、内野手の須長三郎(早稲田大)、漆畑数男(専修大)、小山正彦(立命館大)、外野手の永関勲(早稲田大)、小山哲幸(中京大)と、東西の大学野球で活躍したドラフト候補の選手が揃っていた。同年の甲子園大会に出場した選手を中心に高校生も19名入ったが、この大学生たちに優る即戦力の逸材はいなかった。

 その1カ月前の10月12日、同じ西武グループの国土計画がクラウンライターライオンズの母体=福岡野球株式会社を買収し、西武ライオンズが誕生していた。そのため「西武はプリンスを実質的なファームにして、ドラフト外でトンネル入団させるのではないか」と、他球団から疑念を持たれることになる。

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