『プリンスホテル野球部物語』駒澤大主将で日本代表の石毛宏典は練習に困惑「ぬるかった」

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
証言者:石毛宏典(前編)

「えっ、プリンスホテルでいいんですか?」

 1978年、駒澤大4年生で野球部主将の石毛宏典は監督の太田誠に言った。東都大学野球、秋のリーグ戦が閉幕したあとのことだ。同年9月18日、プリンスホテル野球部の結成が発表されて間もない頃。卒業後の進路を太田に問われた石毛は、「ドラフト1位候補」に挙げられながらもプロ入りの意志がないことをまず表明した。

 そのうえで、石毛のほうからいくつかの社会人チームの名を挙げていくと、各社の事情をよく知る太田からことごとく難色を示された。そして最後に「プリンスに行け」と命じられて「えっ?」となったというのだが、なぜそのような反応になったのか。それ以前になぜ、プロという選択肢がなかったのか。石毛に聞く。

大学、社会人時代に 日本代表メンバーとしてプレーした石毛宏典大学、社会人時代に 日本代表メンバーとしてプレーした石毛宏典この記事に関連する写真を見る

【プロに魅力を感じたことがない】

「まず、僕はプロに行くことに魅力を感じたことがないんです。そもそも野球がうまいと思ったことがないし、高校の時も甲子園に執着がなかったぐらいですから。駒澤には太田さんに誘ってもらって入ったけど、進学したのは高校野球の指導者になりたかったから。先生になるために教職課程をとるつもりでした」

 千葉の市立銚子高では2年時から遊撃のレギュラーとなった好打者。74年、3年の夏は千葉大会決勝で、その後に甲子園で優勝することになる銚子商高に敗れたが0対2の接戦。石毛自身は同年のドラフトでロッテから6位で指名されている。駒大進学が決定したあとで入団交渉もなかったそうだが、プロも注目するポテンシャルがありながら「高校の先生」が目標だった。

「それで学ラン着て授業に行こうとしたら、寮で同部屋の4年生、中畑清(元巨人)先輩に『無理、無理、無理。行くな行くな、そんなもん』って言われて。『バット振っとけ』『走っとけ』ですよ。そのおかげなのかどうか、2年生、3年生で日米大学野球の日本代表に選ばれて。周りから『石毛はプロに行くのか』って言われましたけど、僕はまったくその気がないわけです」

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