元巨人・緒方耕一が振り返る「モテ期」バレンタインのチョコ数、最多記録を樹立 (3ページ目)

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

── そして、プロ3年目の1989年に王貞治監督から藤田元司新監督が誕生。いきなり76試合に出場します。藤田監督の誕生がいいきっかけとなりました。

緒方 藤田さんは投手出身なので「出番をもらえるのかな?」と思っていたんですけど、監督就任後すぐに一軍に呼んでもらいました。あとで聞いたら、「オレはピッチャーだったけど、おまえのようにチョロチョロするヤツが本当にイヤだった」と聞きました。「だから、おまえもチョロチョロしろよ」と言われ、出場機会も増えていきました。

【手応えは"オロナミンC"のCM出演】

── この年はセ・リーグを制し、近鉄バファローズとの日本シリーズでは3連敗からの4連勝で日本一になります。緒方さんは初戦から3試合連続でスタメン出場したものの、4戦目からは出番がありませんでした。この時はどんな心境だったのですか?

緒方 自分が出ている時に3連敗で、メンバーから外れてから4連勝でしたけど、自分自身の調子はすごくよかったんです。むしろ、体が動きすぎて空回りした感じでした。プロの世界は結果がすべてですから、結果を残せなかったのは残念ですけど、「緊張して何もできなかった」という思いはないし、結果的にチームも日本一になったので「よかったな」という思いしかないですね。

── この時点ではプロの世界でも、「やっていけるぞ」という手応えや自信は生まれていたのですか?

緒方 そうですね、『オロナミンC』のCMに呼ばれたり、『月刊ジャイアンツ』の表紙になって特集が組まれたり、球団カレンダーに載ったりして、ようやく手応えのようなものは感じ始めましたね。この頃になると、さすがに「原だ、中畑だ!」とは思わず、ちゃんと「原さん、中畑さん」という感覚になっていました(笑)。

── この頃から、熊本工高の先輩である井上真二さんとともに女性人気が沸騰して、一大ブームを巻き起こしました。大フィーバーの渦中はどんな心境なんですか? 鬱陶しくなったりしないんですか(笑)?

緒方 さすがに「鬱陶しい」とは思わないし、本当にありがたいことですけど、「そっとしておいてほしいな」という思いはありましたね。当時、選手グッズは球場でしか買えなくて、「グッズを買いたいです」ということで、ファンレターのなかにお金が入っていることがよくあったんです。それはちょっと困りましたね(笑)。

── キャンプ中には、「宿舎にバレンタインチョコが500個以上届いた」という伝説も残っていますね。

緒方 あの当時は500個というのは最多記録だったそうです。しばらくの間、僕がずっと1位だったそうですけど、(松坂)大輔の1年目にアッサリと抜かれました(笑)。それも若い頃のいい思い出ですね。

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  この記事に関連する写真を見る緒方耕一(おがた・こういち)/1968年9月2日、熊本県生まれ。熊本工業高から87年にドラフト6位で巨人に入団。プロ入り後にスイッチヒッターに転向し、3年目に一軍初昇格。快足一番打者として頭角を現し、90年に盗塁王獲得。その後、足の故障を克服して93年に2度目の盗塁王に輝いたが、相次ぐ故障により98年に30歳の若さで現役引退。通算成績(実働9年)は685試合出場、打率.263、486安打、17本塁打、130打点、96盗塁。引退後はコーチ、スポーツコメンテーターとして活躍。09年のWBCでは日本代表のコーチを務め、世界一に貢献した

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