元巨人・緒方耕一が振り返る「モテ期」バレンタインのチョコ数、最多記録を樹立 (2ページ目)

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

── 入団2年目まではファームで研鑽を積みましたが、実際に当初の思惑どおりにプロ3年目から一軍出場を果たしています。

緒方 プロ2年目も結果的に一軍出場はなかったですけど、「一軍から呼ばれるかもしれないぞ」とは言われていました。転機になったのは1年目の秋季キャンプでスイッチヒッターに取り組み始めたことが大きかったと思います。

【プロ1年目の秋にスイッチヒッターに転向】

── ご自分でも、「自分の足を生かすべく、左打ちもマスターしよう」という思いがあったのですか?

緒方 いえいえ、18歳でプロに入ったばかりで、見たこともない変化球ばかりでまったく打てる気がしなかったので、「右でも打てないのに、左で打てるはずがない」という思いで、最初はスイッチヒッターになる話も断わっていたんです。でも、ペナントレースが終わって、また「スイッチにチャレンジしろ」と言われました。当時の二軍監督は須藤豊さんだったんですけど、「さすがに二度も断わったら、もう使われなくなるかもしれないよなぁ」と考え直してトライすることにしました。

── 順調に左打ちは習得できましたか?

緒方 全然ダメでしたね。最初の頃は「変なクセがつかないように」ということでスイングはさせてもらえず、とにかくバント練習ばかりでした。毎日500本以上がノルマで、まずは両手で、次は片手で、さらに一塁側に、三塁側に、あるいはセーフティーでなどなど、ひたすらバントばかりでした。とにかく「視覚から慣れろ」ということで、ティーバッティングもマシンバッティングもやらせてもらえませんでした。

── その後はどうなったのですか?

緒方 その年の秋にアリゾナの教育リーグに出ることになって、アメリカで初めて鳥かご(打撃ケージ)に入ってティーバッティング、マシンバッティングをやらせてもらって、3日後ぐらいにいきなり試合に出ました。だから、僕の左打席デビューはアメリカでした。黒人のパワーピッチャー相手に、ピッチャーの足元を抜けるヒット性の当たりを打ったけど、ショートのファインプレーでアウトでした。でも、右打席に関しては「しっかり振れるな」と感じていたけど、左打席については最後まで当て逃げみたいな感覚でした。

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